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聖書:ヨハネによる福音書 15章1~5節
説教:子どもたちへのメッセージ「イエスさまはぶどうの木」
大人たちへのメッセージ「いのちの木」
2023年5月7日 主日礼拝式順・説教
※ 今日は、野外礼拝の予定でしたが、雨天のため中止となりました。
野外礼拝の式順に従って、教会堂で礼拝をささげました。
〇黙 祷
〇招 詞 マタイ福音書(마태복음) 7章 17~21節
〇讃 頌 讃頌歌 563
〇信仰告白 使徒信条
〇祈 祷
〇聖書奉読 ヨハネによる福音書(요한복음) 15章 1~5節
〇説 教 子どもたちへのメッセージ
「イエスさまはぶどうの木」
大人たちへのメッセージ
「いのちの木(생명의 나무)」
〇献 金
〇感謝祈祷
〇報 告
〇頌 栄 讃頌歌 446
〇祝 祷
【 2023年 5月 7日 主日礼拝説教(要約版)】
聖書:ヨハネによる福音書15章1~5節
〇子どもたちへのメッセージ「イエスさまはぶどうの木」
※説教原稿はありません。映像をご覧下さい。
〇大人たちへの「いのちの木」
以前、犬の散歩のことをお話ししたことがあります。散歩をするときには、ハーネスをつけて、リードをかけ、散歩に連れて行きますが、リードを引っ張って、自分の行きたい方向に行こうとします。でも、私が止まりますと、必ず止まります。私が行く方向に必ずついていきます。それでも、リードの長さ分だけの距離をあっちいったり、こっち行ったりしているんですが、私の行く方向に喜んでついてくるんですね。
この犬の姿というのは、私たちの姿なのかなあ、と思うんですね。イエスさまと私たちの関係ということです。私たちはイエスさまに信仰のリードでつながっているんじゃないか、と。
私たちは信仰の鎖でイエスさまにつながれていて、イエスさまが行こうとされるところへ行かなければなりません。イエスさまが「こっちへ来なさい」と言うとそっちへ行かなくてなりません。「私はいやだ。こっちへ行く」と言うのであれば、鎖でつながれていますから、もうそれこそ苦しいことになります。しかし、逆から見れば、イエスさまも鎖で引っ張られていて苦しんでおられます。
イエスさまは死の道へ私たちを連れていこうとはしておられません。命の道へ連れていこうとしておられます。それを私たちが「いや、そっちはいやだ。こっちがいい」と踏んばったその先は、それは死の道の方向ですし、踏ん張っているわたしたちも苦しみ、イエスさまも苦しまれます。
しかし、主の歩まれる方向にわたしたちが従って歩むとき、そこに私たちの平安があります。
と、このような話しをしました。
「わたしはぶどうの木、あなたがたその枝である。」(5節) 皆さんも、よくご存じの今日の御言葉も、同じような意味で語られています。
イエスさまは「まことのぶどうの木」で、私たちはその「枝」です。イエスさまにつながっていれば豊かな実を結びます。このことは私たちにもすぐに理解できます。
ただ、この「イエスさまにつながっている」ということを、ただ単に熱心に信仰することと思っている人が案外、多いのではないでしょうか。宗教は心の問題であって、現実社会での生活と、切り離して考えるのです。果たしてそうでしょうか。
皆さん、イエスさまとつながって生きるというのは、この悩み多き、苦い現実に向き合って、どのように生きて行くべきかを教えているのです。
「わたしはぶどうの木」とイエスさまが言われる「ぶどうの木」とは、どういうものなのでしょうか?
ぶどうと言いますと、色々な種類がありますが、私は三次ピオーネが好きです。高級ぶどうですので、滅多にたべられませんけど・・。日本だと食べるぶどうのことを思い浮かべますが、イスラエルだとワインやジュースを作るためのぶどうになります。
イスラエルの人々にとって、ぶどうの木というのは、まさに「命の木」であったのです。なぜかと言いますと、砂漠のような乾燥地帯が多く、雨期には雨が降りますが、乾期になれば全く雨が降らない日が続きます。湧き水が、まさに命の水となります。でも、この湧き水は、平地の湧き水だと、近くに死海があるくらいですから、塩っぱくて、石灰分も多く含んでいて苦くて、とても飲める水ではないんですね。ヘルモン山の上の方の雪解け水でないと直接飲めないそうです。
それで水の代わりに、ぶどうジュースや、それを日持ちさせるために、発酵させたワインを飲んでいました。ぶどうの木というのは、不味くて飲めない水を吸い上げて、甘くて飲みやすい美味しい水、しか生水を飲むより健康にいい水に変えてくれる、素晴らしい命の木だったわけです。
この「苦い水を甘くする」というのは、旧約聖書のモーセの物語の中にも出て来ます。「マラの苦い水」という物語をご存知でしょうか。
出エジプト記15章にある話しですけれども、エジプトで奴隷状態であったイスラエルの民たちをモーセが導き、何とかエジプトを脱出して、紅海を渡ります。その後、荒野で三日間、さまよう内に、持っていた飲み水を飲みきってしまいます。そこで、モーセはマラと呼ばれている土地で水のある池を見つけるんですが、この水が苦くて飲めません。民たちはモーセに文句を言います。そこでモーセは神さまに祈りますと、神さまはその祈りに答えてくれました。出エジプト記15章25節にこう記されています。「モーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。その木を水に投げ込むと水は甘くなった。」(出15:25)
一本の木が苦い水の中に投げ込まれました。すると、苦い水が甘くなった。飲める水になったのです。イスラエルの民たちはそれを飲んで、生き残ることが出来ました。私はこの一本の木がぶどうの木であったと考えています。旧約聖書の話は、イエス・キリストを通して再解釈されることもありますが、この一本の木がぶどうの木で、まさにイエス・キリストを表していると解釈しています。
苦い水を甘くし、命の水に変えたイエス・キリスト、それがぶどうの木なのです。イエスさまは「まことのぶどうの木」と自分のことを言いましたが、イエスさまこそ本物のぶどうの木であると言うことです。なぜなら、人間のこの苦い世の中を甘く、美味しく、体にも良いものにするお方だからです。
皆さん、私たちはこのイエス・キリストという木につながっている枝です。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(5節)
イエスさまにつながっていれば、私たちは豊かな実を結ぶのです。ただ、一方で、「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」(2節)とあります。ということは、イエスさまにつながっていても実を結ばない人がいるということですね。
このことは、マタイによる福音書7章21節でも言われていることです。「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイ7:21)
私たちは「主よ、主よ」と言って祈ってばかりでは駄目だということです。神さまの御心を行い、何かの実を結ばなければならないと言うことです。
では、「天の父の御心」って何でしょうか? 私たちが実を結ぶために何をしなければならないのでしょうか?
ちょっと、心配になります。でも、イエスさまは別に立派な実を結ばなくてはいけないと言われているわけではありません。また、自力で実を結べとも言われていません。その代わりに、イエスにつながっていないと、実を結ぶことはできないよ、と言われているのです。
皆さん、イエスさまにつながっているということは、イエスさまの言葉と行いに当然つながっているということですね。イエスさまという命の木は、苦い水、すなわち、苦難や行き詰まり、憎しみ、妬み、争い、病気…等、人間の世界の中に放り込まれ、甘い水に(永遠の命の世界に)変えられました。
ですから、私たちもこの苦い水の世界へと放り込まれるのです。そこで苦い世界を甘い世界に変える働きに関わっていると言うことです。私たちは、この世の生きづらさを、少しでも生きやすいものにすること、苦くてまずい水を少しでも飲みやすくしようじゃないかというイエスの働きにあなたも参加しなさい、ということです。
そんなことを言っても何も私にはできないと思われる方がいらっしゃるかも知れません。でも、心配する必要はありません。つながっているのですから、そこにはイエスさまも一緒です。ただ、私たちはイエスさまの言葉と行いに倣って行けばよいのです。
私たちは、それぞれにこの世で与えられた持ち場で、少しでも人の世を生きやすくしようと努めること。それで良いのだと思います。
あるシスターが「何もできない。何もあげる物が無い。そう思っている人にもできることはあります。」と言っています。シスターはこう言います。「あげられるものがない人は、せめて良い言葉を人に与えなさい。」
「良い言葉」というのは、必ずしも耳当たりの良い、褒め言葉とは限りません。愛に裏打ちされた労りや労いの言葉、アドバイス、そして、沈黙でさえも、そこに祈りを込めているならば、人を救いに導くものです。
ですから皆さん、私たちは、これからもイエスさまに倣って、イエスさまと共に、イエスさまの働きを今、一緒に行っていきましょう。
2023年5月7日 主日礼拝式順・説教
※ 今日は、野外礼拝の予定でしたが、雨天のため中止となりました。
野外礼拝の式順に従って、教会堂で礼拝をささげました。
〇黙 祷
〇招 詞 マタイ福音書(마태복음) 7章 17~21節
〇讃 頌 讃頌歌 563
〇信仰告白 使徒信条
〇祈 祷
〇聖書奉読 ヨハネによる福音書(요한복음) 15章 1~5節
〇説 教 子どもたちへのメッセージ
「イエスさまはぶどうの木」
大人たちへのメッセージ
「いのちの木(생명의 나무)」
〇祈 祷
〇献 金
〇感謝祈祷
〇報 告
〇頌 栄 讃頌歌 446
〇祝 祷
【 2023年 5月 7日 主日礼拝説教(要約版)】
聖書:ヨハネによる福音書15章1~5節
〇子どもたちへのメッセージ「イエスさまはぶどうの木」
※説教原稿はありません。映像をご覧下さい。
〇大人たちへの「いのちの木」
以前、犬の散歩のことをお話ししたことがあります。散歩をするときには、ハーネスをつけて、リードをかけ、散歩に連れて行きますが、リードを引っ張って、自分の行きたい方向に行こうとします。でも、私が止まりますと、必ず止まります。私が行く方向に必ずついていきます。それでも、リードの長さ分だけの距離をあっちいったり、こっち行ったりしているんですが、私の行く方向に喜んでついてくるんですね。
この犬の姿というのは、私たちの姿なのかなあ、と思うんですね。イエスさまと私たちの関係ということです。私たちはイエスさまに信仰のリードでつながっているんじゃないか、と。
私たちは信仰の鎖でイエスさまにつながれていて、イエスさまが行こうとされるところへ行かなければなりません。イエスさまが「こっちへ来なさい」と言うとそっちへ行かなくてなりません。「私はいやだ。こっちへ行く」と言うのであれば、鎖でつながれていますから、もうそれこそ苦しいことになります。しかし、逆から見れば、イエスさまも鎖で引っ張られていて苦しんでおられます。
イエスさまは死の道へ私たちを連れていこうとはしておられません。命の道へ連れていこうとしておられます。それを私たちが「いや、そっちはいやだ。こっちがいい」と踏んばったその先は、それは死の道の方向ですし、踏ん張っているわたしたちも苦しみ、イエスさまも苦しまれます。
しかし、主の歩まれる方向にわたしたちが従って歩むとき、そこに私たちの平安があります。
と、このような話しをしました。
「わたしはぶどうの木、あなたがたその枝である。」(5節) 皆さんも、よくご存じの今日の御言葉も、同じような意味で語られています。
イエスさまは「まことのぶどうの木」で、私たちはその「枝」です。イエスさまにつながっていれば豊かな実を結びます。このことは私たちにもすぐに理解できます。
ただ、この「イエスさまにつながっている」ということを、ただ単に熱心に信仰することと思っている人が案外、多いのではないでしょうか。宗教は心の問題であって、現実社会での生活と、切り離して考えるのです。果たしてそうでしょうか。
皆さん、イエスさまとつながって生きるというのは、この悩み多き、苦い現実に向き合って、どのように生きて行くべきかを教えているのです。
「わたしはぶどうの木」とイエスさまが言われる「ぶどうの木」とは、どういうものなのでしょうか?
ぶどうと言いますと、色々な種類がありますが、私は三次ピオーネが好きです。高級ぶどうですので、滅多にたべられませんけど・・。日本だと食べるぶどうのことを思い浮かべますが、イスラエルだとワインやジュースを作るためのぶどうになります。
イスラエルの人々にとって、ぶどうの木というのは、まさに「命の木」であったのです。なぜかと言いますと、砂漠のような乾燥地帯が多く、雨期には雨が降りますが、乾期になれば全く雨が降らない日が続きます。湧き水が、まさに命の水となります。でも、この湧き水は、平地の湧き水だと、近くに死海があるくらいですから、塩っぱくて、石灰分も多く含んでいて苦くて、とても飲める水ではないんですね。ヘルモン山の上の方の雪解け水でないと直接飲めないそうです。
それで水の代わりに、ぶどうジュースや、それを日持ちさせるために、発酵させたワインを飲んでいました。ぶどうの木というのは、不味くて飲めない水を吸い上げて、甘くて飲みやすい美味しい水、しか生水を飲むより健康にいい水に変えてくれる、素晴らしい命の木だったわけです。
この「苦い水を甘くする」というのは、旧約聖書のモーセの物語の中にも出て来ます。「マラの苦い水」という物語をご存知でしょうか。
出エジプト記15章にある話しですけれども、エジプトで奴隷状態であったイスラエルの民たちをモーセが導き、何とかエジプトを脱出して、紅海を渡ります。その後、荒野で三日間、さまよう内に、持っていた飲み水を飲みきってしまいます。そこで、モーセはマラと呼ばれている土地で水のある池を見つけるんですが、この水が苦くて飲めません。民たちはモーセに文句を言います。そこでモーセは神さまに祈りますと、神さまはその祈りに答えてくれました。出エジプト記15章25節にこう記されています。「モーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。その木を水に投げ込むと水は甘くなった。」(出15:25)
一本の木が苦い水の中に投げ込まれました。すると、苦い水が甘くなった。飲める水になったのです。イスラエルの民たちはそれを飲んで、生き残ることが出来ました。私はこの一本の木がぶどうの木であったと考えています。旧約聖書の話は、イエス・キリストを通して再解釈されることもありますが、この一本の木がぶどうの木で、まさにイエス・キリストを表していると解釈しています。
苦い水を甘くし、命の水に変えたイエス・キリスト、それがぶどうの木なのです。イエスさまは「まことのぶどうの木」と自分のことを言いましたが、イエスさまこそ本物のぶどうの木であると言うことです。なぜなら、人間のこの苦い世の中を甘く、美味しく、体にも良いものにするお方だからです。
皆さん、私たちはこのイエス・キリストという木につながっている枝です。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(5節)
イエスさまにつながっていれば、私たちは豊かな実を結ぶのです。ただ、一方で、「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」(2節)とあります。ということは、イエスさまにつながっていても実を結ばない人がいるということですね。
このことは、マタイによる福音書7章21節でも言われていることです。「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイ7:21)
私たちは「主よ、主よ」と言って祈ってばかりでは駄目だということです。神さまの御心を行い、何かの実を結ばなければならないと言うことです。
では、「天の父の御心」って何でしょうか? 私たちが実を結ぶために何をしなければならないのでしょうか?
ちょっと、心配になります。でも、イエスさまは別に立派な実を結ばなくてはいけないと言われているわけではありません。また、自力で実を結べとも言われていません。その代わりに、イエスにつながっていないと、実を結ぶことはできないよ、と言われているのです。
皆さん、イエスさまにつながっているということは、イエスさまの言葉と行いに当然つながっているということですね。イエスさまという命の木は、苦い水、すなわち、苦難や行き詰まり、憎しみ、妬み、争い、病気…等、人間の世界の中に放り込まれ、甘い水に(永遠の命の世界に)変えられました。
ですから、私たちもこの苦い水の世界へと放り込まれるのです。そこで苦い世界を甘い世界に変える働きに関わっていると言うことです。私たちは、この世の生きづらさを、少しでも生きやすいものにすること、苦くてまずい水を少しでも飲みやすくしようじゃないかというイエスの働きにあなたも参加しなさい、ということです。
そんなことを言っても何も私にはできないと思われる方がいらっしゃるかも知れません。でも、心配する必要はありません。つながっているのですから、そこにはイエスさまも一緒です。ただ、私たちはイエスさまの言葉と行いに倣って行けばよいのです。
私たちは、それぞれにこの世で与えられた持ち場で、少しでも人の世を生きやすくしようと努めること。それで良いのだと思います。
あるシスターが「何もできない。何もあげる物が無い。そう思っている人にもできることはあります。」と言っています。シスターはこう言います。「あげられるものがない人は、せめて良い言葉を人に与えなさい。」
「良い言葉」というのは、必ずしも耳当たりの良い、褒め言葉とは限りません。愛に裏打ちされた労りや労いの言葉、アドバイス、そして、沈黙でさえも、そこに祈りを込めているならば、人を救いに導くものです。
ですから皆さん、私たちは、これからもイエスさまに倣って、イエスさまと共に、イエスさまの働きを今、一緒に行っていきましょう。