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聖書:マタイによる福音書 2章 1~12節
説教:「小さな星の光に導かれて」
2022年12月24日 クリスマス燭火礼拝式順・説教
〇黙 祷
〇招 詞 マタイ 1章 23節
〇讃 頌 讃頌歌 109(キャンドル点火)
〇信仰告白 使徒信条
〇祈 祷
〇交 読 文 交読文 119 (聖誕節 ①)
〇讃 頌 讃頌歌 116
〇聖書奉読 マタイ福音書 2章 1~12節
〇讃 頌 讃頌歌 120
〇説 教 「小さな星の光に導かれて」
〇讃 頌 讃頌歌 122
〇祝 祷
【 2022年 12月 24日 クリスマス燭火礼拝説教】
「小さな星の光に導かれて」 マタイ2章1~12節
聖書のクリスマス物語というのは、マタイによる福音書とルカによる福音書に記録されておりますが、イエスさまの誕生自体については、ルカによる福音書2章1~7節の僅か7節に記されているだけです。その前後に、マリアとヨセフ、それぞれに対する受胎告知の物語とマリアが洗礼者ヨハネの母であるエリザベトを訪問した際のマリアの賛歌とヨハネの父ザカリアの預言、それから、羊飼いたちへの救い主誕生の知らせに関わる物語、また、東方の博士たちの物語があって、そんなに多くのことが記されているわけではありません。
先程も言いましたが、イエスさまの誕生自体については、ルカによる福音書2章1~7節の僅か7節に記されているだけです。内容的には、ヨセフとマリア夫婦が住民登録のためにガリラヤの町ナザレからユダヤのベツレヘムに上り、ベツレヘムにいるときにマリアは出産したということです。その出産もベツレヘムには泊まる宿がなくて、家畜小屋で出産するしかなかったという内容です。
イエスさまの誕生というのは、実に栄光や平和というものからは程遠く、何と惨めで、みすぼらしいものであったのかということです。光輝くクリスマスというものではなく、暗闇の中で、ロウソクの光よりも小さな命の光としてイエスさまはお生まれになりました。そのために、救い主の誕生を祝ったのが、羊飼いたちと東方の博士たちだけであったというのが、聖書の証言です。クリスマスを祝うことが出来るのは、まことに限られた人間であったわけですね。
羊飼いたちのクリスマス物語については、先の主日礼拝でお話しました。今日、この燭火礼拝で御一緒に読みました聖書箇所は、東方の博士たちのクリスマス物語です。
東方の国から来た博士たち、日本語の聖書では、占星術の学者たちとなっていますが、占星術という星占いの学者というよりは、マギと呼ばれる当時の最先端の学識を持った人々であったようです。この博士たちが、遠い国からお生まれになった救い主を拝みに来たと言うのです。
東方の博士たちは、いきなり、イエスさまに会った、というわけではありません。羊飼いたちが主の天使を通してイエスさまに会うことが出来たように、この博士たちは、星を通してイエスさまに会うことが出来ました。
1節です。「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。』」(1-2節)
イエスさまはユダヤのベツレヘムでお生まれになりました。そして、東方の博士たちはこう言っています。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」。
東方の博士たちは、生まれたばかりのイエスさまのことを「ユダヤ人の王」と言っています。東方の博士たちは、東の国の人たちです。ユダヤ人からすると、外国人でした。その人たちがユダヤ人の王としてお生まれになった方を探しにやって来たのです。それも探してどうするのかというと、ただ「拝みに来た」と言っています。拝むというのは、礼拝するということです。
これとは対照的な人たちがいました。3節です。「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。」(3節)
ヘロデ王は自分の王としての立場を危うくする「ユダヤ人の王」が生まれたことを聞いて不安になります。ヘロデはユダヤ人ではなく、アラブ人でローマ権力によってユダヤの王になった人物です。様々な政略を用いて、この地位までになった人ですから、その地位が危うくなるというのは、彼にとっては大きな不安材料であるわけですね。これは、私たちにもすぐに理解できるかと思います。ところが、エルサレムの人々も不安を抱いたと言うのです。なぜ、他の人々も不安を抱いたのか?
それは、東の国の外国からお偉い博士たちがやって来て、新たなユダヤ人の誕生という、ユダヤの国がまた混乱するようなおかしなこと言う、しかも、星に導かれてやって来たなど、不吉な予感がするようなことを博士たちが言うので、不安を抱いたというだけではないんですね。彼らは、今の自分たちの生活が変わること嫌ったのです。今の生活が自分に与えられている特権かのように考え、その慣れしたんだ状態が変わることに不安を覚えたのです。
ヘロデ王はこのことを確かめるために、ユダヤの祭司長たち、律法学者たちを集めて、ユダヤ人の王について尋ねます。聖書にはその時のことがこのように書かれています。4節です。「王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。」(4節)
ここには「ユダヤ人の王」とは書いていません。「メシア」と書いています。救い主がどこに生まれたのかと。ヘロデ王は自らユダヤ人にとって良き王、正しい王ではないことを告白しているようなものです。今の苦しい立場に追いやられたユダヤ人を救ってくれるメシアということです。
ヘロデのこの問いに対して、祭司長たちや律法学者たちは「占星術の学者たちが言っていることを本当だと思います」とか、「いや間違いだと思います」とか、答えていないんですね。それが6節です。「ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。」(6節)
彼らは自分たちがどう考えるかということではなく、聖書の言葉(ミカ書5章1節)から答えました。ミカ書というのは、ヘロデの時代からすると、800年ほど前の書物ですから、ずっと昔の言葉をヘロデに伝えました。彼らは、自分の言葉で答え、責任を問われたら大変なことになりますので、ただ聖書の言葉をヘロデに伝えたのです。彼らは聖書の言葉を利用したと言っても良いかもしれません。
ヘロデ王は聖書の言葉を信じていませんので、聖書の言葉を聞いただけでは信じられませんでした。それで今度は博士たちを呼び寄せて、彼らから救い主のことを聞いています。
7節です。「ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、『行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう』と言ってベツレヘムへ送り出した。」(7-8節)
古代から傑出した人物の誕生には、天変地異が起こるといった「時のしるし」があることが信じられてきました。ヘロデは聖書の言葉ではなく、博士たちが言う星、「時のしるし」を信じたのです。しかし、その時、彼は動こうとはしませんでした。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ」というのです。
自分は何も動こうとはしない。今の生活に留まり続けようとします。それに対し、博士たちは自分の生活を捨てて、小さな星の光を追い求めて、ユダヤまでやって来たのです。その星の光はまことに小さなものです。すぐに見失ってしまうものだったのでしょう。見失ったから、ヘロデの元を訪ねたわけです。
彼らはベツレヘムというヒントをもとに、救い主を求めて、また歩み始めました。そうするつ、星が輝き、彼らを幼子イエスさまのもとへ導きました。彼らはついにイエスさまと会うことが出来たのです。9節です。「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(9-11節)
東方の博士たちは、どうぢてイエスさまに会うことが出来たのでしょうか。その一つの理由は、救い主を求めた、ということです。求める人にイエスさまは出会ってくださるのです。また、もう一つの理由は、博士たちは「宝の箱を開けた」(11節)とありました。大切なものが入っている箱を開けた。これは神さまに心を開くということです。求め、心を開く人にイエスさまは出会ってくださるのです。
幼子イエスさまを礼拝した彼らは、ヘロデのところには行かず、「別の道を通って自分たちの国に帰って行った」(12節)と言います。「夢でお告げがあった」、彼らは神さまの言葉を聞いたのです。
ヘロデのところというのは、神さまを知らず、自分のことだけを求めて生きる道、生き方ということです。そこへもう帰ってはならない、ということです。そして、別の道というのは、あなたがたは救い主に出会った。これからは神さまを信じて、自分のことだけでなく、神さまと隣人を愛する道を、生き方を歩みなさい、ということです。
クリスマスとは何でしょうか?「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」とありました。博士たちは救い主に会い、救い主を礼拝し、大切なもの、自分自身をささげました。クリスマスという言葉はキリストを礼拝するという意味です。博士たちはキリストを礼拝するために、小さな星の光に導かれて遠く旅をしてきました。
神さまが与えられるしるし、導き、招きというのは、小さな星の光のようなものかもしれません。クリスマス物語に登場する人や場所、「マリアとヨセフ」「ベツレヘム」「飼い葉桶」「羊飼い」「星」、それらはこの世的に見れば、何の価値もない小さなものだったのです。神さまが私たちに与えられるしるしというのは、小さく、はかないしるしなのです。 博士たちを導いたものは、エルサレムの誰も顧みなかった、かすかな星の小さな光でした。ところがこの小さなもの、かすかなものが、先立って進み、立ち往生し途方に暮れていた博士たちを、主イエスさまの下へと導いたのです。神さまは小さく、目立たず、微かなしるしを用いて、私たちを救いへと連れて行って下さるのです。
こういう文章があります。「大きな壁にぶつかったときに、大切なことはただ一つ。壁の前でちゃんとウロウロしていること。越えられない壁に直面したとき、うずくまっていないでその前でうろつくこと。すると壁の下に小さな穴が見つかり、トンネルが開くかもしれない。ヘリコプターが上空から見つけてくれるかもしれない。希望は、無駄とか損とかという計算の向こうに見つかったりするものだ。」
皆さん、このクリスマスの時、私たちに与えられた小さなしるしを見つける時としたいと思います。そして、私たちも「別の道を通って」、救いの道を歩んで行きたいと思います。
2022年12月24日 クリスマス燭火礼拝式順・説教
〇黙 祷
〇招 詞 マタイ 1章 23節
〇讃 頌 讃頌歌 109(キャンドル点火)
〇信仰告白 使徒信条
〇祈 祷
〇交 読 文 交読文 119 (聖誕節 ①)
〇讃 頌 讃頌歌 116
〇聖書奉読 マタイ福音書 2章 1~12節
〇讃 頌 讃頌歌 120
〇説 教 「小さな星の光に導かれて」
〇祈 祷
〇讃 頌 讃頌歌 122
〇祝 祷
【 2022年 12月 24日 クリスマス燭火礼拝説教】
「小さな星の光に導かれて」 マタイ2章1~12節
聖書のクリスマス物語というのは、マタイによる福音書とルカによる福音書に記録されておりますが、イエスさまの誕生自体については、ルカによる福音書2章1~7節の僅か7節に記されているだけです。その前後に、マリアとヨセフ、それぞれに対する受胎告知の物語とマリアが洗礼者ヨハネの母であるエリザベトを訪問した際のマリアの賛歌とヨハネの父ザカリアの預言、それから、羊飼いたちへの救い主誕生の知らせに関わる物語、また、東方の博士たちの物語があって、そんなに多くのことが記されているわけではありません。
先程も言いましたが、イエスさまの誕生自体については、ルカによる福音書2章1~7節の僅か7節に記されているだけです。内容的には、ヨセフとマリア夫婦が住民登録のためにガリラヤの町ナザレからユダヤのベツレヘムに上り、ベツレヘムにいるときにマリアは出産したということです。その出産もベツレヘムには泊まる宿がなくて、家畜小屋で出産するしかなかったという内容です。
イエスさまの誕生というのは、実に栄光や平和というものからは程遠く、何と惨めで、みすぼらしいものであったのかということです。光輝くクリスマスというものではなく、暗闇の中で、ロウソクの光よりも小さな命の光としてイエスさまはお生まれになりました。そのために、救い主の誕生を祝ったのが、羊飼いたちと東方の博士たちだけであったというのが、聖書の証言です。クリスマスを祝うことが出来るのは、まことに限られた人間であったわけですね。
羊飼いたちのクリスマス物語については、先の主日礼拝でお話しました。今日、この燭火礼拝で御一緒に読みました聖書箇所は、東方の博士たちのクリスマス物語です。
東方の国から来た博士たち、日本語の聖書では、占星術の学者たちとなっていますが、占星術という星占いの学者というよりは、マギと呼ばれる当時の最先端の学識を持った人々であったようです。この博士たちが、遠い国からお生まれになった救い主を拝みに来たと言うのです。
東方の博士たちは、いきなり、イエスさまに会った、というわけではありません。羊飼いたちが主の天使を通してイエスさまに会うことが出来たように、この博士たちは、星を通してイエスさまに会うことが出来ました。
1節です。「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。』」(1-2節)
イエスさまはユダヤのベツレヘムでお生まれになりました。そして、東方の博士たちはこう言っています。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」。
東方の博士たちは、生まれたばかりのイエスさまのことを「ユダヤ人の王」と言っています。東方の博士たちは、東の国の人たちです。ユダヤ人からすると、外国人でした。その人たちがユダヤ人の王としてお生まれになった方を探しにやって来たのです。それも探してどうするのかというと、ただ「拝みに来た」と言っています。拝むというのは、礼拝するということです。
これとは対照的な人たちがいました。3節です。「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。」(3節)
ヘロデ王は自分の王としての立場を危うくする「ユダヤ人の王」が生まれたことを聞いて不安になります。ヘロデはユダヤ人ではなく、アラブ人でローマ権力によってユダヤの王になった人物です。様々な政略を用いて、この地位までになった人ですから、その地位が危うくなるというのは、彼にとっては大きな不安材料であるわけですね。これは、私たちにもすぐに理解できるかと思います。ところが、エルサレムの人々も不安を抱いたと言うのです。なぜ、他の人々も不安を抱いたのか?
それは、東の国の外国からお偉い博士たちがやって来て、新たなユダヤ人の誕生という、ユダヤの国がまた混乱するようなおかしなこと言う、しかも、星に導かれてやって来たなど、不吉な予感がするようなことを博士たちが言うので、不安を抱いたというだけではないんですね。彼らは、今の自分たちの生活が変わること嫌ったのです。今の生活が自分に与えられている特権かのように考え、その慣れしたんだ状態が変わることに不安を覚えたのです。
ヘロデ王はこのことを確かめるために、ユダヤの祭司長たち、律法学者たちを集めて、ユダヤ人の王について尋ねます。聖書にはその時のことがこのように書かれています。4節です。「王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。」(4節)
ここには「ユダヤ人の王」とは書いていません。「メシア」と書いています。救い主がどこに生まれたのかと。ヘロデ王は自らユダヤ人にとって良き王、正しい王ではないことを告白しているようなものです。今の苦しい立場に追いやられたユダヤ人を救ってくれるメシアということです。
ヘロデのこの問いに対して、祭司長たちや律法学者たちは「占星術の学者たちが言っていることを本当だと思います」とか、「いや間違いだと思います」とか、答えていないんですね。それが6節です。「ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。」(6節)
彼らは自分たちがどう考えるかということではなく、聖書の言葉(ミカ書5章1節)から答えました。ミカ書というのは、ヘロデの時代からすると、800年ほど前の書物ですから、ずっと昔の言葉をヘロデに伝えました。彼らは、自分の言葉で答え、責任を問われたら大変なことになりますので、ただ聖書の言葉をヘロデに伝えたのです。彼らは聖書の言葉を利用したと言っても良いかもしれません。
ヘロデ王は聖書の言葉を信じていませんので、聖書の言葉を聞いただけでは信じられませんでした。それで今度は博士たちを呼び寄せて、彼らから救い主のことを聞いています。
7節です。「ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、『行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう』と言ってベツレヘムへ送り出した。」(7-8節)
古代から傑出した人物の誕生には、天変地異が起こるといった「時のしるし」があることが信じられてきました。ヘロデは聖書の言葉ではなく、博士たちが言う星、「時のしるし」を信じたのです。しかし、その時、彼は動こうとはしませんでした。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ」というのです。
自分は何も動こうとはしない。今の生活に留まり続けようとします。それに対し、博士たちは自分の生活を捨てて、小さな星の光を追い求めて、ユダヤまでやって来たのです。その星の光はまことに小さなものです。すぐに見失ってしまうものだったのでしょう。見失ったから、ヘロデの元を訪ねたわけです。
彼らはベツレヘムというヒントをもとに、救い主を求めて、また歩み始めました。そうするつ、星が輝き、彼らを幼子イエスさまのもとへ導きました。彼らはついにイエスさまと会うことが出来たのです。9節です。「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(9-11節)
東方の博士たちは、どうぢてイエスさまに会うことが出来たのでしょうか。その一つの理由は、救い主を求めた、ということです。求める人にイエスさまは出会ってくださるのです。また、もう一つの理由は、博士たちは「宝の箱を開けた」(11節)とありました。大切なものが入っている箱を開けた。これは神さまに心を開くということです。求め、心を開く人にイエスさまは出会ってくださるのです。
幼子イエスさまを礼拝した彼らは、ヘロデのところには行かず、「別の道を通って自分たちの国に帰って行った」(12節)と言います。「夢でお告げがあった」、彼らは神さまの言葉を聞いたのです。
ヘロデのところというのは、神さまを知らず、自分のことだけを求めて生きる道、生き方ということです。そこへもう帰ってはならない、ということです。そして、別の道というのは、あなたがたは救い主に出会った。これからは神さまを信じて、自分のことだけでなく、神さまと隣人を愛する道を、生き方を歩みなさい、ということです。
クリスマスとは何でしょうか?「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」とありました。博士たちは救い主に会い、救い主を礼拝し、大切なもの、自分自身をささげました。クリスマスという言葉はキリストを礼拝するという意味です。博士たちはキリストを礼拝するために、小さな星の光に導かれて遠く旅をしてきました。
神さまが与えられるしるし、導き、招きというのは、小さな星の光のようなものかもしれません。クリスマス物語に登場する人や場所、「マリアとヨセフ」「ベツレヘム」「飼い葉桶」「羊飼い」「星」、それらはこの世的に見れば、何の価値もない小さなものだったのです。神さまが私たちに与えられるしるしというのは、小さく、はかないしるしなのです。 博士たちを導いたものは、エルサレムの誰も顧みなかった、かすかな星の小さな光でした。ところがこの小さなもの、かすかなものが、先立って進み、立ち往生し途方に暮れていた博士たちを、主イエスさまの下へと導いたのです。神さまは小さく、目立たず、微かなしるしを用いて、私たちを救いへと連れて行って下さるのです。
こういう文章があります。「大きな壁にぶつかったときに、大切なことはただ一つ。壁の前でちゃんとウロウロしていること。越えられない壁に直面したとき、うずくまっていないでその前でうろつくこと。すると壁の下に小さな穴が見つかり、トンネルが開くかもしれない。ヘリコプターが上空から見つけてくれるかもしれない。希望は、無駄とか損とかという計算の向こうに見つかったりするものだ。」
皆さん、このクリスマスの時、私たちに与えられた小さなしるしを見つける時としたいと思います。そして、私たちも「別の道を通って」、救いの道を歩んで行きたいと思います。