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聖書:イザヤ書 43章 16~20節
説教:「今や、それは芽生えている」
【 2021年新年礼拝 式順 】
黙 祷 イザヤ書 43:1 一 同
招 詞 司 会 者
讃 頌 550 司 会 者
信仰告白 使徒信条 一 同
祈 祷 司 会 者
主の祈り 主の祈り 一 同
聖書奉読 イザヤ書 43:16~20 司 会 者
説 教 < 今や、それは芽生えている > 中江洋一牧師
祈 祷 説 教 者
讃 頌 379 一 同
献 金 (新年感謝献金) 一 同
報 告 司 会 者
頌 栄 1 一 同
祝 祷 中江洋一牧師
説教:「今や、それは芽生えている」 イザヤ書 43章16~20節
新しい年、2021年を迎え、その最初の日の朝に、主に招かれて、こうして、皆さんと共に、礼拝を献げられる恵みを、心から感謝いたします。
新しい年を、先ず神さまの御前に跪き、御言葉に聴き、主を賛美することから、始められることは、何よりの幸いです。
昨年は、本当に大変な一年でした。これまで経験したことのないウイルスの脅威に世界中が震えました。それまでの生活も一変し、生活スタイルそのものを変えなければなりませんでした。今もそれが続いており、それどころか、より一層状況は悪化しております。広島でも医療危機に瀕していて、このままでは一般診療も出来なくなってしまう可能性もあります。本当に今、医療従事者たちは大変な状況にあります。この状況を変えるためには、私たち一人一人が、自分に出来る感染対策を十分に取りながら、生活するしかありません。そのような中で、新しい年を迎え、どこに希望を見出せば良いのか分からないという人もいるでしょう。実際、明るい話題が何も出て来ません。不安ばかりです。
だからこそ、信仰を持つ私たちは、神さまに希望を見出していきたいと思います。礼拝を誠実に守りながら、祈る日々を、重ねていきたいと願います。これから先、礼拝堂に集まって礼拝を献げることが、また、出来なくなることもあり得ます。それでも、私たちは、嘆くのではなく、その時に出来る方法で、礼拝を献げ、祈りを合わせて行きたいと思うのです。
今日、与えられた御言葉は、旧約聖書・イザヤ書43章16~20節の御言葉です。19節にこうありました。「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。」(19節)
神さまは、新しいことを行われる、と言っているのです。そして、それは、もう芽生えている、と言うのです。あなたたちには、それが見えないのですか、と問いかけています。
神さまは、新しいことをなされると、言います。そうであるなら、私たちは、その神さまの御業を、見させていただきたい、と願います。せっかく、新しい年を迎えたのですから、今年こそ、「今や、芽生えている」、神さまの御業を、見させていただきたいものです。
神さまの御業というのは、実は、神さまが天地を創造された時から、たゆみなく、前に向かって、進めておられます。しかし、残念なことに、私たちは、それを、なかなか見つけることが出来ないのです。ですから、いくら努力しても、現実は何も変らない。いくら祈っても、空しい。思わず、そう呟いてしまうのです。
しかし、神さまは、「新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている」、と力強く言われています。それは、もう、芽生えているのです。土に蒔かれた種が、未だ、土の中で、眠っているのではなくて、すでに芽生えている、というのです。そうであるなら、その神さまの御業を、見逃さないように、しっかりと見つめていきたいと思います。現実は、何も変わらないように見えるかもしれません。ても、私たちは、目を未来に向けていきたいと思います。
昨年一年間を振り返っても、現実の世界は、どこに、神さまの御業が、なされたのか、見出し難いような世の中でした。感染症のために多くの命が失われました。通常では助かる命も治療が遅れて失われてしまったケースもあります。失業に追いやられた人も多くいます。そういう現実をみると、神さまがおられるなんて、信じられないと思っても仕方ありません。それでも、私たちは、この現実の只中にあって、神さまが、今、この時にも、確かにいてくださる。確かに、御業をなしてくださっている、と信じていくのです。芽生えている神さまの御業を、探し求めていく。それが、私たちに、与えられた信仰です。人のピンチは、神さまのチャンスであることを、信じていくのです。
今年は、十二支、いわゆる干支で言いますと、丑(うし)の年です。漢字で書きますと、動物の「牛」ではなく、「丑」と書きます。「丑」という字は、元々は、手の指を曲げて物を握る様子を表した象形文字で、つかむ、からむという意味があります。それから、発展して、芽が種子の内部で伸びきらない状態を表しているとされています。意味としては、曲がる、ねじるという意味がありますが、その場合は「ちょう」と読みます。今、まさに固い殻はを破って芽が出ようとしている状態ですね。
それから、十二支を覚えやすくするために動物が当てられたそうですが、丑には、「牛」という動物が当てられました。牛というのは、聖書の中にも多く出て来ます。牛は昔から、食用というよりも生活のパートナーでした。重い荷物を運んだり畑を耕したりと生活の中に欠かせない動物だったのです。ウシは力強さの象徴であり、粘り強さ、誠実さを表すとされています。粘り強く、誠実に生活をしていく、するとそこから新しい芽が出てくる。まさに、私たちにとって、必要なことではないでしょうか?
私たちは、悲しいことや、辛いことを経験すると、どうしても心が、内向きになりがちです。「あぁ、あの時こうすればよかった」、「あんなことしなければよかった」と、後悔の思いで、心が一杯になります。また、昔の良かった時のことを思い出し、その思い出に浸ることによって、今の苦しさや、悲しさを、忘れようとすることもあります。
しかし、いくら昔のことを、懐かしんでも、過去に戻ることはできません。ですから、過去を見つめるだけでは、何も問題は、解決しません。過去の思い出に、浸るだけでは、この今という時を、大切に生きることはできないのです。
先程、読みました、イザヤ書43章18節で、預言者は、「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな」、と語っています。預言者か語っている、「初めからのこと」、「昔のこと」というのは、かつてエジプトの奴隷であった、イスラエルの民が、神さまの御手によって、エジプトから解放された出来事を意味しています。「出エジプト」と呼ばれている、出来事のことです。
16節、17節の御言葉は、神さまが、エジプトの軍隊を、紅海で滅ぼしたことを、想い起させています。イスラエルの民は、エジプトを出る際に、驚くべき神さまの御業を見たのです。モーセが手を挙げた時に、あの紅海が分かれました。そして、その分かれた、海の底を、彼らは歩いて向こう岸に渡りました。彼らが渡り終わった後に、水は戻ってきて、エジプトの軍隊が、戦車もろとも、海の藻くずとなって、消え去ったのです。
イスラエルの民にとって、この「出エジプト」の出来事は、彼らの信仰の原点でした。心の拠り所でした。ですから、彼らは、どんな時も、この「出エジプト」の出来事を忘れず、いつも、その出来事を心に留めて、子供や孫たちにも、伝えていったのです。
けれども、今日の御言葉は、そのことを想い起すよりも、もっと大切なことは、これから行われる、神さまの御業を見ることだ、と言っているのです。
神さまは、イスラエルの民に、新しいことを、行なおうとしておられるのです。そして、今や、それは芽生えているのです。それに気付いて欲しい。そのことを、悟って欲しい。神さまは、そう呼びかけておられるのです。
このイザヤ書43章が、書かれた時代というのは、イスラエルが、バビロン帝国によって滅ぼされ、多くの民がバビロンに、強制的に、連行されていた頃のことです。そのような苦難の中で、人々は、かつてエジプトの奴隷から、救われた時のことや、ダビデ王やソロモン王の頃の、繁栄した時代を懐かしみ、昔のことを、思い巡らしていたのです。それによって、国を失い、異国の地にある、苦しみを忘れ、心に慰めを見出していたのです。もちろん、神さまがなさったことを忘れず、いつも感謝することは、大切です。
しかし、過去の恵みが、いくら大きくても、過去のことだけに、目を奪われてしまって、神さまが、今、自分に為さろうとしていることに、気づかないようではいけないのです。
昨日の恵みではなく、今日の恵み、明日の恵みに、生かされなければ、いけないのです。過去の恵みを、感謝すると共に、今、神さまが、自分にしてくださっていること、これから自分に為そうとしておられることに、しっかりと、目を向けることが、大切なのです。
神さまは、「見よ、新しいことをわたしは行う」と言われています。神さまの驚くべき御業を見て、野の獣、山犬や、駝鳥も、神さまを崇めるようになる、というのです。山犬は、荒野の狂暴な動物です。駝鳥は、自分が産んだ卵を踏みつけ、子供の面倒も見ない、愚かな動物です。実は、これらの動物は、私たちを、象徴しているのです。私たちは、そのように、粗野で、愚かな存在なのです。
しかし、神さまは、そんな私たちのために、荒野に道を開き、行くべき道を、整えてくださるのです。暗闇の世界に光を灯してくださるのです。そして、私たちが神さまを崇め、褒め称える者としてくださるのです。そればかりか、神さまの栄光を、顕わす者としてくださるのです。なんという素晴らしい約束でしょうか。
このイザヤの預言が語られた時、イスラエルの民の目には、新しいことが起こるとは、思えない状態でした。彼らの目の前には、砂漠があり、荒れ野状態でした。荒れ野に道が敷かれることなどあり得ない状態でした。砂漠に水が湧き、大河が流れるなど、起こりえない状態でした。
そんな状態の人々に対して、神さまは、語られたのです。「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている」。
皆さん、今日、神さまは、私たちの教会に対しても、「見よ、新しいことをわたしは行う」、と語りかけてくださっているのです。今や、それは芽生えている と語りかけてくださっている、と信じましょう。
私たちは、昔のことを、懐かしみ、今を、嘆きやすいものです。昔は、教会学校にたくさんの子どもたちがいた。礼拝にも60人を超える人が集まった。今日の新年礼拝も、私が赴任した頃は、、100人を超える人が集まりました。確かに、昔は、そのような恵みが、与えられていました。それは、本当に感謝なことです。その恵みに感謝することを、忘れてはいけないと思います。
しかし、広島教会は、もはや、恵みから落ちてしまっているのでしょうか。もう、神さまの恵みは、以前ほど、注がれなくなって、しまったのでしょうか。そんなことは、無い筈です。神さまは、必ず、新たな恵みを、用意してくださっている筈です。新しいことを行おうとされている筈です。そして、それは、既に、芽生えているのです。
皆さん、新しく与えられたこの年、私たちは、神さまが、広島教会に用意されている、新しい恵みを、共に探してまいりましょう。神さまが、広島教会に、これから咲かせようとしておられる、花のつぼみを、草木の芽を、ご一緒に、見出しましょう。喜びと、期待を持って、主がなされる、新しいことに、応えてまいりましょう。
「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。」
皆さんの人生にも、今年、新しいことが起こると信じましょう。年を取って、昔のように、動けなくなったかもしれません。昔は、あれもした、これもした。でも今は、何もできない、と残念に思われることが、多いかもしれません。
しかし、神さまは、新しいことを用意してくださっています。若い時には出来なかったことが、今ならできる。そのようなことが、必ず見つかります。
見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。この御言葉を、今日、主が与えてくださった、恵みの約束として、握り締めていきましょう。
神さまは、この新しい年も、私たちに新しいことをしてくださいます。そして、もうそれは芽生えています。この教会において芽生えています、そして皆さん、お一人お一人の、人生において、芽生えています。皆さんのご家庭にも、芽生えています。
この年、皆さんの心の中に、命の川の水が流れ始めます。新しい年が、皆さんにとって、新しい御業を体験する年となることを、信じます。
神さまの祝福が、皆さまの上に、豊かにありますように、お祈りいたします。
【 2021年新年礼拝 式順 】
黙 祷 イザヤ書 43:1 一 同
招 詞 司 会 者
讃 頌 550 司 会 者
信仰告白 使徒信条 一 同
祈 祷 司 会 者
主の祈り 主の祈り 一 同
聖書奉読 イザヤ書 43:16~20 司 会 者
説 教 < 今や、それは芽生えている > 中江洋一牧師
祈 祷 説 教 者
讃 頌 379 一 同
献 金 (新年感謝献金) 一 同
報 告 司 会 者
頌 栄 1 一 同
祝 祷 中江洋一牧師
説教:「今や、それは芽生えている」 イザヤ書 43章16~20節
新しい年、2021年を迎え、その最初の日の朝に、主に招かれて、こうして、皆さんと共に、礼拝を献げられる恵みを、心から感謝いたします。
新しい年を、先ず神さまの御前に跪き、御言葉に聴き、主を賛美することから、始められることは、何よりの幸いです。
昨年は、本当に大変な一年でした。これまで経験したことのないウイルスの脅威に世界中が震えました。それまでの生活も一変し、生活スタイルそのものを変えなければなりませんでした。今もそれが続いており、それどころか、より一層状況は悪化しております。広島でも医療危機に瀕していて、このままでは一般診療も出来なくなってしまう可能性もあります。本当に今、医療従事者たちは大変な状況にあります。この状況を変えるためには、私たち一人一人が、自分に出来る感染対策を十分に取りながら、生活するしかありません。そのような中で、新しい年を迎え、どこに希望を見出せば良いのか分からないという人もいるでしょう。実際、明るい話題が何も出て来ません。不安ばかりです。
だからこそ、信仰を持つ私たちは、神さまに希望を見出していきたいと思います。礼拝を誠実に守りながら、祈る日々を、重ねていきたいと願います。これから先、礼拝堂に集まって礼拝を献げることが、また、出来なくなることもあり得ます。それでも、私たちは、嘆くのではなく、その時に出来る方法で、礼拝を献げ、祈りを合わせて行きたいと思うのです。
今日、与えられた御言葉は、旧約聖書・イザヤ書43章16~20節の御言葉です。19節にこうありました。「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。」(19節)
神さまは、新しいことを行われる、と言っているのです。そして、それは、もう芽生えている、と言うのです。あなたたちには、それが見えないのですか、と問いかけています。
神さまは、新しいことをなされると、言います。そうであるなら、私たちは、その神さまの御業を、見させていただきたい、と願います。せっかく、新しい年を迎えたのですから、今年こそ、「今や、芽生えている」、神さまの御業を、見させていただきたいものです。
神さまの御業というのは、実は、神さまが天地を創造された時から、たゆみなく、前に向かって、進めておられます。しかし、残念なことに、私たちは、それを、なかなか見つけることが出来ないのです。ですから、いくら努力しても、現実は何も変らない。いくら祈っても、空しい。思わず、そう呟いてしまうのです。
しかし、神さまは、「新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている」、と力強く言われています。それは、もう、芽生えているのです。土に蒔かれた種が、未だ、土の中で、眠っているのではなくて、すでに芽生えている、というのです。そうであるなら、その神さまの御業を、見逃さないように、しっかりと見つめていきたいと思います。現実は、何も変わらないように見えるかもしれません。ても、私たちは、目を未来に向けていきたいと思います。
昨年一年間を振り返っても、現実の世界は、どこに、神さまの御業が、なされたのか、見出し難いような世の中でした。感染症のために多くの命が失われました。通常では助かる命も治療が遅れて失われてしまったケースもあります。失業に追いやられた人も多くいます。そういう現実をみると、神さまがおられるなんて、信じられないと思っても仕方ありません。それでも、私たちは、この現実の只中にあって、神さまが、今、この時にも、確かにいてくださる。確かに、御業をなしてくださっている、と信じていくのです。芽生えている神さまの御業を、探し求めていく。それが、私たちに、与えられた信仰です。人のピンチは、神さまのチャンスであることを、信じていくのです。
今年は、十二支、いわゆる干支で言いますと、丑(うし)の年です。漢字で書きますと、動物の「牛」ではなく、「丑」と書きます。「丑」という字は、元々は、手の指を曲げて物を握る様子を表した象形文字で、つかむ、からむという意味があります。それから、発展して、芽が種子の内部で伸びきらない状態を表しているとされています。意味としては、曲がる、ねじるという意味がありますが、その場合は「ちょう」と読みます。今、まさに固い殻はを破って芽が出ようとしている状態ですね。
それから、十二支を覚えやすくするために動物が当てられたそうですが、丑には、「牛」という動物が当てられました。牛というのは、聖書の中にも多く出て来ます。牛は昔から、食用というよりも生活のパートナーでした。重い荷物を運んだり畑を耕したりと生活の中に欠かせない動物だったのです。ウシは力強さの象徴であり、粘り強さ、誠実さを表すとされています。粘り強く、誠実に生活をしていく、するとそこから新しい芽が出てくる。まさに、私たちにとって、必要なことではないでしょうか?
私たちは、悲しいことや、辛いことを経験すると、どうしても心が、内向きになりがちです。「あぁ、あの時こうすればよかった」、「あんなことしなければよかった」と、後悔の思いで、心が一杯になります。また、昔の良かった時のことを思い出し、その思い出に浸ることによって、今の苦しさや、悲しさを、忘れようとすることもあります。
しかし、いくら昔のことを、懐かしんでも、過去に戻ることはできません。ですから、過去を見つめるだけでは、何も問題は、解決しません。過去の思い出に、浸るだけでは、この今という時を、大切に生きることはできないのです。
先程、読みました、イザヤ書43章18節で、預言者は、「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな」、と語っています。預言者か語っている、「初めからのこと」、「昔のこと」というのは、かつてエジプトの奴隷であった、イスラエルの民が、神さまの御手によって、エジプトから解放された出来事を意味しています。「出エジプト」と呼ばれている、出来事のことです。
16節、17節の御言葉は、神さまが、エジプトの軍隊を、紅海で滅ぼしたことを、想い起させています。イスラエルの民は、エジプトを出る際に、驚くべき神さまの御業を見たのです。モーセが手を挙げた時に、あの紅海が分かれました。そして、その分かれた、海の底を、彼らは歩いて向こう岸に渡りました。彼らが渡り終わった後に、水は戻ってきて、エジプトの軍隊が、戦車もろとも、海の藻くずとなって、消え去ったのです。
イスラエルの民にとって、この「出エジプト」の出来事は、彼らの信仰の原点でした。心の拠り所でした。ですから、彼らは、どんな時も、この「出エジプト」の出来事を忘れず、いつも、その出来事を心に留めて、子供や孫たちにも、伝えていったのです。
けれども、今日の御言葉は、そのことを想い起すよりも、もっと大切なことは、これから行われる、神さまの御業を見ることだ、と言っているのです。
神さまは、イスラエルの民に、新しいことを、行なおうとしておられるのです。そして、今や、それは芽生えているのです。それに気付いて欲しい。そのことを、悟って欲しい。神さまは、そう呼びかけておられるのです。
このイザヤ書43章が、書かれた時代というのは、イスラエルが、バビロン帝国によって滅ぼされ、多くの民がバビロンに、強制的に、連行されていた頃のことです。そのような苦難の中で、人々は、かつてエジプトの奴隷から、救われた時のことや、ダビデ王やソロモン王の頃の、繁栄した時代を懐かしみ、昔のことを、思い巡らしていたのです。それによって、国を失い、異国の地にある、苦しみを忘れ、心に慰めを見出していたのです。もちろん、神さまがなさったことを忘れず、いつも感謝することは、大切です。
しかし、過去の恵みが、いくら大きくても、過去のことだけに、目を奪われてしまって、神さまが、今、自分に為さろうとしていることに、気づかないようではいけないのです。
昨日の恵みではなく、今日の恵み、明日の恵みに、生かされなければ、いけないのです。過去の恵みを、感謝すると共に、今、神さまが、自分にしてくださっていること、これから自分に為そうとしておられることに、しっかりと、目を向けることが、大切なのです。
神さまは、「見よ、新しいことをわたしは行う」と言われています。神さまの驚くべき御業を見て、野の獣、山犬や、駝鳥も、神さまを崇めるようになる、というのです。山犬は、荒野の狂暴な動物です。駝鳥は、自分が産んだ卵を踏みつけ、子供の面倒も見ない、愚かな動物です。実は、これらの動物は、私たちを、象徴しているのです。私たちは、そのように、粗野で、愚かな存在なのです。
しかし、神さまは、そんな私たちのために、荒野に道を開き、行くべき道を、整えてくださるのです。暗闇の世界に光を灯してくださるのです。そして、私たちが神さまを崇め、褒め称える者としてくださるのです。そればかりか、神さまの栄光を、顕わす者としてくださるのです。なんという素晴らしい約束でしょうか。
このイザヤの預言が語られた時、イスラエルの民の目には、新しいことが起こるとは、思えない状態でした。彼らの目の前には、砂漠があり、荒れ野状態でした。荒れ野に道が敷かれることなどあり得ない状態でした。砂漠に水が湧き、大河が流れるなど、起こりえない状態でした。
そんな状態の人々に対して、神さまは、語られたのです。「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている」。
皆さん、今日、神さまは、私たちの教会に対しても、「見よ、新しいことをわたしは行う」、と語りかけてくださっているのです。今や、それは芽生えている と語りかけてくださっている、と信じましょう。
私たちは、昔のことを、懐かしみ、今を、嘆きやすいものです。昔は、教会学校にたくさんの子どもたちがいた。礼拝にも60人を超える人が集まった。今日の新年礼拝も、私が赴任した頃は、、100人を超える人が集まりました。確かに、昔は、そのような恵みが、与えられていました。それは、本当に感謝なことです。その恵みに感謝することを、忘れてはいけないと思います。
しかし、広島教会は、もはや、恵みから落ちてしまっているのでしょうか。もう、神さまの恵みは、以前ほど、注がれなくなって、しまったのでしょうか。そんなことは、無い筈です。神さまは、必ず、新たな恵みを、用意してくださっている筈です。新しいことを行おうとされている筈です。そして、それは、既に、芽生えているのです。
皆さん、新しく与えられたこの年、私たちは、神さまが、広島教会に用意されている、新しい恵みを、共に探してまいりましょう。神さまが、広島教会に、これから咲かせようとしておられる、花のつぼみを、草木の芽を、ご一緒に、見出しましょう。喜びと、期待を持って、主がなされる、新しいことに、応えてまいりましょう。
「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。」
皆さんの人生にも、今年、新しいことが起こると信じましょう。年を取って、昔のように、動けなくなったかもしれません。昔は、あれもした、これもした。でも今は、何もできない、と残念に思われることが、多いかもしれません。
しかし、神さまは、新しいことを用意してくださっています。若い時には出来なかったことが、今ならできる。そのようなことが、必ず見つかります。
見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。この御言葉を、今日、主が与えてくださった、恵みの約束として、握り締めていきましょう。
神さまは、この新しい年も、私たちに新しいことをしてくださいます。そして、もうそれは芽生えています。この教会において芽生えています、そして皆さん、お一人お一人の、人生において、芽生えています。皆さんのご家庭にも、芽生えています。
この年、皆さんの心の中に、命の川の水が流れ始めます。新しい年が、皆さんにとって、新しい御業を体験する年となることを、信じます。
神さまの祝福が、皆さまの上に、豊かにありますように、お祈りいたします。