〇黙 祷
〇招 詞 Ⅰコリント 13章 12~13節
〇讃 頌 讃頌歌 303 (1・3節)
〇祈 祷
〇聖書奉読 ヨハネによる福音書 17章 1~5節
〇説 教 「永遠の命って、何?」
〇讃 頌 讃頌歌 288 (1・3節)
〇献 金
〇感謝祈祷
〇頌 栄 讃頌歌 5
〇主祈祷 主の祈り
※主日礼拝内容 (各家庭での礼拝に用いて下さい)
〇黙 祷 黙祷をもって礼拝を始めます。
〇招 詞 コリントの信徒への手紙 一 13章 12~13節
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
〇讃 頌 讃頌歌 303 (1・3節)
〇祈 祷 お祈りいたします。
恵み深い父なる神さま。
ステイ・ホームが強いられる中で、イライラや不安や様々な葛藤がある私たちが、今、そのままの姿で主の御前に出て、礼拝を献げられますことを感謝いたします。弱い私たちを顧みて下さい。主の生きた御言葉をもって、私たちに平安と希望をお与え下さいますように。このような時にこそ、聖霊の助けが必要ですから、私たちの聖霊の満たしをお与え下さい。
希望の源であられる主なる神さま。
新型コロナウイルスのために、生活が大きく狂わされ、不安を抱えていたり、苦しみの中にある人々がたくさんおります。どうか、その一人一人の傍らにあなたがいて下さり、支え導き、希望をお与え下さい。主は耐えられない試練は与えられないと信じますから、あなたの愛の中で、私たちが助け合い、祈り合う中で、この困難を乗り越えて行くことが出来ますように。
癒やしの主であられる神さま、
どうか、病に苦しむ人々に必要な医療が施されますように。感染の終息に向けて取り組むすべての人々、医療従事者、病者に寄り添う人々の健康が守られますように。一日も早く、感染症に対する特効薬やワクチンが開発され、日常の生活を取り戻すことが出来ますように。特に、子どもたちの生活が守られますよう、家族の愛と絆を強めて下さい。私たちが以前の日常生活ばかりを求めるだけではなく、今の生活をもっと充実されるすべを考え、新たな生活様式を構築することが出来ますよう良き知恵をお与え下さい。世界の為政者たちが、自らの政治生命をかけて、この困難に立ち向かうことが出来ますよう、勇気と決断力と人々に仕える献身の心をお与え下さい。
主よ、この時間、飢え渇きを覚える私たちの魂に、御言葉を通して、恵みを降り注いでください。私たち広島教会に属する全ての主の家族に平安と喜びをお与え下さい。
すべての祈りと併せて、このお祈りを、わたしたちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
〇聖書奉読 ヨハネによる福音書 17章 1~5節
17:1 イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。
17:2 あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。
17:3 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
17:4 わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。
17:5 父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。
〇説 教 「永遠の命って、何?」ヨハネ 17章1~5節
今日の御言葉は、最後の晩餐の席上でイエスさまが語られた最後の御言葉です。そして、この最後の御言葉は、弟子たちのために神さまに願い、祈られたものでした。それが26節までの17章全体の御言葉です。今日、御一緒に読みましたのは5節までですが、この5節の間に「栄光」という言葉が5回も出てきます。イエスさまは5節で次のように語っています。「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」(5節)
ヨハネによる福音書1章にも書かれているとおり、元々、キリストは、天において、父なる神さまの御元に、共におられました。父なる神さまと「栄光」を共有しておられたのです。その父なる神さまの御元から、キリストは、人間イエスとなって地上においでになり、父から与えられた「業」を成し遂げられました。そして、「父よ、時が来ました」(1節)と、イエスさまは語ります。それは、父なる神さまのみもとに帰る時です。そして、そこに帰れば、子なる神としての栄光が待っているのです。
ここでイエスさまは、「わたしがみもとで持っていたあの栄光」と語られていますが、
フィリピの信徒への手紙2章6~8節に「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」と、ありますように、父なる神さまと共有しておられた「栄光」を捨てて、私たち人間のもとへと来られました。それはどこまでも神さまと人に仕える僕の姿であり、栄光とは無関係のものでありました。
では、天の上でのイエスさまの栄光の姿とは、どんなものであったのでしょうか?それは想像するしかありませんが、ただ、ここで言えることは、イエスさまのご人格は変わらないと言うことです。場所が変わり、身分が変わったから、偉そうになるというのではなく、神さまとして天にあっても、人として地にあっても、そのご人格、その愛は変わらないと言うことです。そのご人格が、その愛が、本当の意味で「栄光」を表わしているのだと思うのです。
主イエス・キリストの変わることのない人格と愛というのは、私たちに「永遠の命」を与えることができる権能と深く結び付いています。「永遠の命」とは何でしょうか?「永遠の命」と言うのは、私たちは、死後、天国で生きることだ、死のない世界で、安らかに、神さまと共に生きることだと考え、信仰者はそれが神さまの恵みによって与えられてると信じております。しかし、今日の御言葉の中で、イエスさまは、3節でこのように語っておられます。「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(3節)
つまり、永遠の命とは、唯一のまことの神さまとイエス・キリストを知っている命、ということになります。天国に召された時に与えられる命なのではなく、父なる神さまとイエス・キリストを知ることで、もう既に、私たちは永遠の命を生きているのです。
そうであるならば、イエス・キリストとは、どのようなお方でしょうか? イエスさまは、「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました」(4節)と、語っています。その業というのは、人を愛することであり、人を愛する業の究極が、十字架に架かって死ぬことでした。イエスさまは、神さまの掟である律法に込められている神さまの御心は、神さまが人を愛しておられる恵みだと受け止めました。だからイエスさまは人を愛され、特に、差別され、疎外され、悲しみ悩んでいる人々を愛されました。そのために祭司長たちやファリサイ派の人々から非難され、命を狙われても、愛の業をやめませんでした。そして、遂に捕えられ、裁かれ、十字架に架けられることになるのですが、イエスさまはご自分を見捨てる弟子たちを決して責めませんでした。また、ご自分を十字架に架ける人々のことを、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ 23章34節)と、十字架の上で祈られました。イエスさまは、ご自分の命を捨てるところまで、その愛を全うされたのです。命を捨てるほどの愛の業によって、唯一のまことの神の栄光を、愛の栄光を現したのです。
皆さん、イエス・キリストを知るというのは、その愛を知ることです。命を捨てて、命を懸けて人を愛する方だと知ることです。そして、イエス・キリストを知ることが、真の神さま、父なる神さまを知ることなのだ、というのがヨハネによる福音書の一貫した考えです。ですから、イエス・キリストを知れば、神さまを知ったことになります。イエス・キリストの愛は、神さまの愛です。神さまの愛も命がけの愛です。父なる神さまが、ご自分の独り子イエス・キリストの命を、私たちのためにお捨てになった愛なのです。
この、真の神さまの愛を、キリストの愛を、私たちはどのようにして「知る」ことができるのでしょうか?もちろん、聖書を通して私たちは知ることができます。けれども、大切なのは、「知る」ということの内容、その質です。「知る」ということは、知識として知る、知識として頭に記憶するという意味ではありません。聖書が「知る」という言葉を使うとき、それは全人格的に知る、という意味で使います。私たちが誰かを知っているというのは、誰かに聞いて知っているということでは、本当にその人のことを知っているとは言えないでしょう。その人と実際に交流して、生活を共にする中で、相手を見、相手に聞き、語りかけ、コミュニケーションを取って初めて、その人を知り、また、その人もそうやって自分のことを知り、“わたしとあなた”と呼び合えるような愛し合う関係を築き上げていくことが出来ます。イエスさまはまさに、真の神さまを「あなた」と呼んで、神さまを知り、深い関係に生きているのです。
私たちは、何事も実践してみなければ、“分かった”とは言えません。例えば、私は中学・高校とテニス部に所属していました。中学の時は軟式(ソフト)テニスで、高校の時は硬式テニスでしたが、軟式と硬式は、同じテニスでも全く違うスポーツなのです。違うのはボールとラケットが違うだけと言っても良いほどの違いなんですが、実際にやってみると全く違うのです。何が違うのかと言いますと、打ち方が違うんですね。ラケットを振るファームが全く違うのです。スポーツは何でもそうですが、このフォームが大切です。軟式テニスから硬式テニスに変わった時に苦労したのがこのファームの変更でした。そのために毎日何百回と素振りをして硬式テニスのファームを体に覚えさせるわけですね。でも、実際にコートでボールを打ってみると上手く行きません。何度も、失敗し、挫折しそうになりながら、繰り返し練習して、身に付け、上達していくことが出来るわけですね。
神さまを「知る」、イエス・キリストを「知る」ということも、これと同じです。聖書を単に知識として学ぶだけでは、聖書に込められた先人たちのメッセージとか、彼らが伝えようとした神さまの愛は分からないのです。生活の中で、聖書を読み、祈る。また、礼拝を守り、神さまの言葉を聞く。そして、今日一日の生活の中で、いつ、どんな場面で神さまの愛があったかを考えてみて、感謝できることが、今日一日いくつあったか数えてみる。そうやって神さまの愛を意識しながら、その愛の下で、御言葉に従って生きてみるのです。そして、実際に、自分も神さまを愛し、隣人を愛し、互いに愛し合うことを心がけてみるのです。
愛するというのは、相手のことを思い、相手を中心に行う行為です。そのためには、自分の何かを捨て、献げることが必要です。自分の時間を、労力を、お金を、自分のためにではなく、神さまのために、また人のために献げるのです。時には、自分の自己主張や、怒りを捨てることが必要な時もあります。そうやって、捨てる痛みや献げる喜びを感じて初めて、私たちは愛が分かるのです。神さまの愛が分かるのです。
それでも、私たちは失敗することや出来ないことだってあるでしょう。けれども、やってみようとして、その失敗を通して、私たちは生きた学びをするのです。自分が“罪人”であることを知るのです。そして、罪人の自分のためにイエス・キリストは命を捨ててくださった、愛してくださったと気づく時、キリストの愛の片鱗に触れ、心が震えるのではないでしょうか。イエス・キリストを知り、イエス・キリストを通して、真の神さまを知るのではないでしょうか。神さまの愛は、理屈で知るものではありません。神さまを信じ、神さまの御言葉に従って生きてきた人が、その生活の中で、理屈を超えて感じることの出来る感動なのです。
「永遠の命」、それは、父なる神さまと主イエス・キリストに愛され、私たちも神さまとキリストを愛し、また互いに愛し合うときに、永遠の命を生きています。コリントの信徒への手紙(一)13章13節に、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中でもっとも大いなるものは、愛である」と記されています。イエス・キリストを知り、いつまでも残る、もっとも大いなるものを宿している命、それが永遠の命なのです。
[お祈りいたします]
愛の神さま。主イエス・キリストを通して、私たちにもたらされた愛を神さまの栄光を私たちの生活の中でもっと感じることが出来ますよう、聖霊を満たして下さい。私たちが互いに愛し合うことを実践する中で、理屈を超えて感動出来る信仰でありますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
[요약판] “영생이란 뭐냐?” 요한복음 17장 1~5절
오늘의 성경말씀 요한복음 17장 1~5절 가운데 “영화”라는 말이 오 번이나 나옵니다. 예수님께서는 5절에서 다음과 같이 말씀하셨습니다. “아버지여 창세 전에 내가 아버지와 함께 가졌던 영화로써 지금도 아버지와 함께 나를 영화롭게 하옵소서”(5절)
여기서 예수님께서는 “내가 아버지와 함께 가졌던 영화로써” 라고 말씀하셨습니다만, 빌립보서 2장 6~8절에 “그는 근본 하나님의 본체시나 하나님과 동등됨을 취할 것으로 여기지 아니하시고 오히려 자기를 비워종의 형체를 가지사 사람들과 같이 되셨고 사람의 모양으로 나타나사 자기를 낮추시고 죽기까지 복종하셨으니 곧 십자가에 죽으심이라”(고전2:6-8) 라고 있 듯이 아버지 하나님과 공유하셨던 “영화”를 버려 우리 인간 곁에 오셨습니다. 그것은 어디까지나 하나님과 사람을 섬기는 종의 모습이며 영광과는 아무런 관계가 없는 모습이었습니다.
그러면, 하늘에서 예수님의 영화로운 모습이란 어떤 것이었을까요? 그것은 상상할 수밖에 없습니다만, 여기서 말할 수 있는 것은 예수님의 인격이 전혀 바뀌지 않으신다는 것입니다. 장소가 바뀌어 신분이 바뀌었다고 해서 잘난 체하지 않고 하나님으로서 하늘에 있어도 사람으로서 땅에 있어도 그 인격, 그 사랑은 바뀌지않는다는 것입니다. 그 인격이, 그 사랑이 참된 뜻으로 “영화”를 나타내고 있는 것입니다.
주 예수 그리스도의 바뀌지 않는 인격과 사랑이라는 것은 우리에게 “영생”을 줄 수 있는 권세와 깊이 결부되어 있습니다. 그러면, 여기서 말하는 “영생”이란 무엇일까요? 예수님께서는 3절에서 이렇게 말씀하셨습니다. “영생은 곧 유일하신 참 하나님과 그가 보내신 자 예수 그리스도를 아는 것이니이다”(3절)
즉 영생이란 유일하신 참 하나님과 예수 그리스도를 알고 있는 생명이라는 것이 됩니다. 우리 믿는 자가 천국에 불려갔을 때에 주어지는 생명이 아니라 아버지 하나님과 예수 그리스도를 아는 것으로 벌써 우리는 영생을 살고 있다는 것입니다.
그렇다면, 예수 그리스도란 어떤 분이실까요? 예수님께서는 4절에서 “아버지께서 내가 하라고 주신 일을내가 이루어 아버지를 이 세상에서 영화롭게 하였사오니”(4절) 라고 말씀하셨습니다. 그 “하라고 주신일”이란 사람을 사랑하는 것이며 사람을 사랑하는 일의 궁극이 십자가에 못박혀 죽는 것이었습니다. 예수님께서는 율법에 나타나는 하나님의 마음이 하나님께서 사람을 사랑하시는 은혜라고 이해하셨습니다. 그래서예수님께서는 사람을 사랑하여 특히 차별받고 소외당하여 슬퍼하여 고민하고 있는 사람들을 사랑하셨습니다. 그 때문에 제사장들이나 바리새인들에게서 비난받고 목숨이 위협 받아도 사랑하는 것을 그만두지 않으셨습니다.
그리고 마침내 붙잡혀 십자가에 못박히게 되셨습니다만 예수님께서는 자기를 버린 제자들을 결코 책하지않으셨습니다. 또 자기를 십자가에 못박은 사람들을 위해 “아버지 저들을 사하여 주옵소서 자기들이 하는것을 알지 못함이니이다”(눅23:34) 라고 십자가 위에서 기도하셨습니다. 예수님께서는 자신의 생명을 버리기까지 그 사랑을 완수하신 것입니다. 생명을 버리기까지의 사랑의 일로 유일하신 참 하나님의 영화를, 사랑의 영화를 나타나신 것입니다.
여러분, 예수 그리스도를 안다는 것은 그 사랑을 아는 것입니다. 생명을 버려 생명을 걸고 사람을 사랑하는분이시라고 아는 것입니다. 그리고 예수 그리스도를 아는 것이 참 하나님, 아버지 하나님을 아는 것이라는것이 요한복음의 일관한 생각입니다. 그러므로 예수 그리스도를 알면 하나님을 아는 것이 됩니다. 예수 그리스도의 사랑은 하나님의 사랑입니다. 하나님의 사랑도 목숨을 건 사랑입니다. 아버지 하나님께서 자신의 독생자이신 예수 그리스도의 생명을 우리를 위해 버리신 사랑인 것입니다.
이 참 하나님의 사랑을, 그리스도의 사랑을 우리는 어떻게 해서 알 수 있을까요?
물론 성경을 통해서 알 수 있습니다. 그러나 중요한 것은 “안다”는 것의 내용, 그 질입니다. “안다”는 것은지식으로 안다, 지식으로서 모리 속에 기억한다는 뜻이 아닙니다. 성경이 “안다”는 말을 쓸 때 그것은 전인격적으로 안다는 뜻으로 씁니다. 우리가 누군가를 알고 있다는 것은 누군가에게 들어서 알고 있다면 그것은 참으로 그 사람을 알고 있다고는 말할 수 없지요. 그 사람과 실제로 교류하여 생활을 같이 하는 가운데 그 사람을 보고 듣고 이야기하고 커뮤니케이션을 해야 비로소 그 사람을 알아 또 그 사람도 나를 알아 “나와 당신”이라고 부를 수 있는 것 같은서로 사랑하는 관계를 만들어낼 수 있습니다. 예수님께서는 바로 하나님을 “당신”이라고 불러서 하나님을알고 깊은 관계에 살고 계셨습니다.
우리는 무슨 일이라도 실천해 보지 않으면 “알았다”고는 말할 수 없습니다. 성경 말씀을 단순히 지식으로서 배우는 것만으로는 성경에 담긴 선인들의 메시지나 그들이 전하려고 한 하나님의 사랑은 알지 못하는 것입니다. 생활 가운데 성경을 읽고 기도한다. 또 예배를 보고 하나님의 말씀을 듣는다. 그리고 오늘 하루의 생활 가운데 언제 어떤 장면에서 하나님의 사랑이 있었는가 생각해 보고 감사할 수 있는 것이 오늘 하루에 얼마나 있었는지 헤아려 본다. 그렇게 해서 하나님의 사랑을 의식하면서 그 사랑 아래에서 하나님의 말씀을 따라 살아보는 것입니다. 그리고 실제로 자기도 하나님을 사랑하고 이웃을 사랑하여 서로 사라하는 것을 노력해 보는 것입니다.
사랑한다는 것은 상대를 생각하여 상대를 중심으로 행하는 행위입니다. 그러기 위해서는 자신의 뭔가를 버려 바치는 것이 필요합니다. 나의 시간을, 노력을, 돈을, 나를 위해서가 아니라 하나님을 위하여 또 남을 위하여 바치는 것입니다. 때로는 나의 자지 주장이나 노염을 버릴 필요가 있을 때도 있습니다. 그렇게 해서 버리는 아픔이나 바치는 기쁨을 느껴야 비로소 우리는 사랑을 알 수 있습니다. 하나님의 사랑을 알 수 있는 것입니다.
그런데도 우리는 실패하거나 못할 때도 있지요. 그러나 해 보려고 해서 그 실패를 통해서 우리는 산 배움을하는 것입니다. 내가 “죄인”인 줄을 아는 것입니다. 그리고 죄인인 나를 위해 예수 그리스도께서는 생명을버려 주셨다, 사랑해 주셨다고 깨달았을 때, 그리스도의 사랑의 편린에 접하여 마음이 떨리는 게 아닐까요? 예수 그리스도를 알아 예수 그리스도를 통해서 참 하나님을 아는 게 아닐까요?
하나님의 사랑은 이론으로 아는 것이 아닙니다. 하나님을 믿고 하나님의 말씀을 따라 살아온 사람이 그 생활 속에서 이론을 넘어서 느낄 수 있는 감동인 것입니다.
“영생”, 그것은 아버지 하나님과 주 예수 그리스도께 사랑받고 우리도 하나님을 사랑하여 또 서로 사랑할때에 영생을 살고 있는 것입니다. 고린도전서 13장 13절에 “믿음, 소망, 사랑, 이 세 가지는 항상 있을 것인데 그 중의 제일은 사랑이라” 라고 쓰여 있습니다. 예수 그리스도를 알아 항상 있고 더 큰 것을 내포한 생명, 바로 그것이 영생인 것입니다.
〇讃 頌 讃頌歌 288 (1・3節)
〇献 金 ※ 毎週、各家庭で献金を献げ、教会で礼拝を守られるようになりましたなら、まとめて献げてください。
〇感謝の祈り
主なる神さま。今ここに、それぞれが感謝と献身のしるしとして献金を献げました。、この献げ物を通して、あなたへの感謝と信頼を新たにすることができますように。そして、与えられた全てのものを通して、あなたの栄光をあらわすことが出来ますように、私たちをお導き下さい。今日よりの新たな一週間もあなたと共に歩ませてください。この困難な時期を耐える力を私たちにお与えください。また、あなたとのつながり、そしてあなたを信じる人々とのつながりがより深まりますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
〇頌 栄 讃頌歌 5
〇主祈祷 主の祈り
天にまします我らの父よ。
願わくは、御名をあがめさせたまえ。御国をきらたせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らをこころみにあわせず、悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。