〇黙 祷
〇招 詞 使徒言行録 4章 18~20節
〇讃 頌 讃頌歌 290 (1・3節)
〇祈 祷
〇聖書奉読 ヨハネによる福音書 16章 25~33節
〇説 教 「悲勇気を出しなさい」
〇讃 頌 讃頌歌 465 (1・3節)
〇献 金
〇感謝祈祷
〇頌 栄 讃頌歌 5
〇主祈祷 主の祈り
※主日礼拝内容 (各家庭での礼拝に用いて下さい)
〇黙 祷 黙祷をもって礼拝を始めます。
〇招 詞 使徒言行録 4章 18~20節
そして、二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した。しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」
〇讃 頌 讃頌歌 290 (1・3節)
〇祈 祷 お祈りいたします。
希望の源であられる主なる神さま。
弱さと罪を背負ったままの私たちを呼び集め、共に礼拝を献げる時を与えて下さり感謝します。私たちは、そのままの姿で主の御前におります。どうか、この罪人をお赦し下さい。主の十字架の血潮によって、私たちを洗い清めて下さい。主のために忠誠を尽くす、真の聖徒とならしめてください。
私たちが献げる礼拝を喜んで受け入れて下さい。聖霊の賜物をお与え下さい。教会の頭なるイエスさまの体として、私たちを一つにして下さい。
聖霊なる神よ。今、礼拝を献げる私たちの心を照らして下さい。御言葉を悟り、信じ、また、従うことが出来るようにして下さい。
愛に満ちたもう神さま。
新型コロナウイルスのために、生活が大きく狂わされ、不安を抱えていたり、苦しみの中にある人々がたくさんおります。どうか、その一人一人の傍らにあなたがいて下さり、支え導き、希望をお与え下さい。主は耐えられない試練は与えられないと信じますから、あなたの愛の中で、私たちが助け合い、祈り合う中で、この困難を乗り越えて行くことが出来ますように。
癒やしの主であられる神さま、
感染拡大が一日も早く収束しますように。病に苦しむ人々に必要な医療が施され、感染の終息に向けて取り組むすべての人々、医療従事者、病者に寄り添う人々の健康が守られますように。亡くなった人が永遠のみ国に迎え入れられ、尽きることのない安らぎに満たされますように。不安と混乱に直面しているすべての人に、支援の手が差し伸べられますように。
ホームステイが強いられる中で、親も子もだんだん心が不安定になっておりますが、家庭での生活がもっと楽しいものとなりますよう家族の絆を強めて下さい。また、学校が再開されつつありますが、日々の変化に子どもたちが耐えられますように。
また、日常の教会生活を待ち望んでいる私たちでありますが、どこにいましても、どのようなかたちにしても、共に心を合わせ祈り、礼拝を献げていきますから、飢え渇きを覚える私たちの魂に、御言葉を通して、恵みを降り注いでください。私たち広島教会に属する全ての主の家族に平安と喜びをお与え下さい。
このお祈りをすべての祈りと併せて、
わたしたちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
〇聖書奉読 ヨハネによる福音書 16章 25~33節
16:25 「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。
16:26 その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。
16:27 父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。
16:28 わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」
16:29 弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。
16:30 あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」
16:31 イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。
16:32 だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。
16:33 これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
〇説 教 「勇気を出しなさい」ヨハネ16章25~33節
イエスさまは、今までに何度も「十字架の死」と「復活」について語って来られましたが、弟子たちはそのことを理解出来ず、ただ戸惑うばかりでした。そのような弟子たちに対して、イエスさまは弁護者である聖霊を与えることを約束され、弟子たちのもとに来ますと、「あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(13節)のです。
弟子たちは、イエスさまが自分たちの身代わりとなって死んでくださったこと、自分たちの罪を背負って犠牲になってくださったこと、救いの道を切り開いてくださった恵みを悟るのです。そのイエスさまが、見えない霊となって自分たちのもとに帰って来てくださった慰めを、また、いつも共にいて、神の愛で満たしてくださる喜びを味わうことになるのです。
それが先週、御一緒に読みました「今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」(22節)という内容でした。
今日の御言葉は、それに続く内容です。イエスさまは、弟子たちに対して、悲しみが喜びに変わる、あなたを決してひとりきりにはしない、聖霊となってわたしがあなたと共にいて、その悲しみを喜びへと変えると約束してくださったのですが、御自身に対しては「ひとりきり」になることを語っておられます。32節です。「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。」(32節)
最後の晩餐の席から、既にイスカリオテのユダが出て行きました。イエスさまに敵対している人々に、イエスさまを売り渡すためです。やがてユダが手引きをして、イエスさまは捕らえられ、裁判にかけられ、神を冒瀆した罪で有罪とされ、十字架に架けられて処刑されます。その時、イエスさまについて行く弟子は、一人もいませんでした。皆、恐れのため、保身のため、イエスさまを見捨てて逃げ去りました。誰も、イエスさまと道を共にせず、苦難を共にせず、イエスさまは「ひとりきり」になりました。イエスさまは、そういう未来を予想しておられました。
けれども、弟子たちに見捨てられ、状況としては「ひとりきり」の孤独に陥ったとしても、イエスさまは「しかし、わたしはひとりではない」(32節)と言われます。それは、「父が、共にいてくださるからだ」(32節)と信じていたからです。誰に反対されようとも、誰に見捨てられようとも、父なる神さまが自分と共にいてくださる。この信仰こそ、「勇気」の源であり、「苦難」に打ち克ち、「平和」を得るための力です。
イエスさまが捕らえられ、十字架に架けられて処刑された時、弟子たちは散らされて逃げ去りましたが、その後、再びエルサレムに戻って来ます。そして、共に集まり、共に祈り、共にイエスさまの救いを宣べ伝え始めました。イエスさまの道を歩き始めたのです。
けれども、その時、イエスさまが予告されていたとおり、「苦難」(33節)が起こります。弟子たちもまた、イエスさまと同じように、世の人々から反対され、迫害されるようになるのです。直前の15章18節以下で、イエスさまは既に、弟子たちが迫害を受けるようになることを予告されていました。「あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」(15章19節)と。
弟子たちは世に属していないのです。それはこの世の価値観に属していないということのです。この世の道を歩まないのです。弟子たちは、イエスさまに属しているのです。イエスさまの信仰と価値観を抱いているのです。イエスさまの道を歩むのです。自分の力に頼り、この世の栄光や物質的豊かさを第一とし、自分の好みによって人を差別し、自分を正しいと正当化する。そういう道から離れて、神さまに造られ、愛されていると信じて神さまの力と愛にゆだね、神さまの導き支えを信じて神さまの御心を第一とし、隣人を愛し、互いに愛し合い、神さまの前に常に悔い改めて生きる。そういうイエスさまの道を、弟子たちは歩むのです。
だから、世の人々から憎まれるのです。違うから憎まれるのです。自分たちは正しいと思い込み、愛を忘れている宗教指導者たちから、主流派のファリサイ派の人々から迫害されるのです。使徒言行録を読みますと、イエスさまの教えを宣べ伝え始めた弟子たちが、捕らえられ、尋問され、脅され、投獄され、処刑される様子が書き記されています。けれども、弟子たちは迫害する人々に対して、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(使徒言行録4章19節)と、大胆に答えています。そのような毅然とした態度を弟子たちに取らせた力は何だったのでしょうか? それは「勇気」です。信仰による勇気です。
イエスさまは、苦難に打ち克つために「勇気を出しなさい」(33節)と、弟子たちを励まされました。勿論、この勇気は聖霊の力によって弟子たちにもたらされるものですが、そこには弟子たちの信仰が問われているのです。自分がどのように生きて行くのか?イエスさまに従う道を選ぶのかどうなのか?
自分たちは、イエスさまを裏切ってしまった。簡単にイエスさまを見捨ててしまった。それなのに、イエスさまはこのわたしを決して見捨てられない。どんな時も共にいてくださる。愛し導かれる。このことを悟った弟子たちに本当の信仰が芽生えました。イエスさまの教えに従って、イエスさまの道を歩もうと決心しました。
世の人々から認められなくとも、祭司長やファリサイ派の人々から嫌われようとも、反対され迫害されようとも、キリストの弟子として生きようとしました。弟子たちに、そのような生き方を貫かせた力は信仰による勇気に他なりません。
「わたしは既に世に勝っている」(33節)と、イエスさまは力強く言われました。世に勝つ、とはどういうことでしょうか? それは、人々に勝つとか、相手を負かすとか、ねじ伏せる、言うことを聞かせる、認めさせる‥‥そういったことではありません。
それは、自分の生き方を貫くということです。誰かに認められなくても、自分らしく生きるということ。それが、「世に勝っている」ということです。イエスさまが、まさにそういうお方でした。祭司長やファリサイ派の非難を恐れず、神の愛に徹して生きられました。
そして、そのような自由こそ、視点を変えれば、「平和」ということなのではないでしょうか。人の目、人の評価、人の思惑に縛られているうちは、私たちの心に平安はありません。人を気にしなくなった時、縛られなくなった時、私たちの心は平安を得ます。平和な心を得るのです。
誰の目も、評価も、思惑も気にせず、誰に認められなくても、誰に嫌われても恐れずに生きて行くのです。それはまさに「ひとりきり」になるということです。良く言えば、自立独立して生きている、主体的に生きているということです。
けれども、それは同時にしんどいことでもあります。そのような生き方をするためには、そのような孤独に耐えるためには、確かに「勇気」が必要でしょう。その勇気はどこから生まれるのでしょうか?
32節、「しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。」
私たちクリスチャンにとっては、この信仰から勇気が生まれて来ます。目には見えないけれど、主イエス・キリストが、キリストの霊が共にいてくださる、との信仰から生まれて来ます。
それは言い換えれば、自分の命を生きるというのは、このように自由に生きることだという真理を確信しているということです。命の真理は我と共にあり、そう確信しているから、その喜びがあるから、何ものをも恐れない「勇気」が湧いてくるのです。
使徒言行録には、キリスト者と訳されるギリシア語が8回出て来ます。その言葉を文字どおりに訳すと、“キリストの道の者”という意味になります。キリストの道を歩む者です。私たちは、キリストの道を歩む者なのです。
キリストの言葉を知識として身に付ける者ではありません。キリストの言葉に従い、キリストの道を地道に歩くことを、キリストから期待され、求められているのです。もしかしたら反対され、憎まれるかも知れません。困難や苦難があるかも知れません。けれども、「勇気」を胸に、この道を歩いて行くのです。信仰を胸に、キリストと共にある喜びを、自分が信じる道を生きる心の平和を生きていくのです。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(33節)
皆さん、主イエス・キリストのこの御言葉を胸に、聖霊の助けを祈りながら歩んで行きましょう。
[お祈りいたします]
インマヌエルの主よ。悲しみを喜びへと変えてくださるあなたの愛を与えて下さい。「わたしはひとりではない」との信仰をお与え下さい。その信仰のゆえに、キリストの道を歩む「勇気」をお与え下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
(요약판) “용기를 내라” 요한복음 16장 25~33절
지난 주의 성경말씀에는 예수님께서 제자들에게 슬픔이 기쁨으로 바뀐다고 약속해 주셨습니다. 즉 너희를결코 혼자 두지 않겠다, 성령으로 내가 너희와 함께 하고 그 슬픔을 기쁨으로 바뀐다고 약속해 주신 것입니다.
그런데, 오늘의 성경말씀에는 예수님 자신께서 “혼자” 될 것이라고 말씀하셨습니다. 32절입니다. “보라 너희가 다 각각 제 곳으로 흩어지고 나를 혼자 둘 때가 오나니 벌써 왔도다”(32절)
최후의 만찬 자리에서 벌써 가룟 유다가 떠나갔습니다. 예수님을 적대하는 사람들에게 예수님을 팔아 넘기기 위해서였습니다. 이윽고 유다가 길잡이를 해서 예수님께서는 붙잡혀 재판에 회부되어 하나님을 모독한죄로 유죄 판결을 받고 십자가에 못박혀 처행되셨습니다. 그 때, 예수님을 따라가는 제자는 한 사람도 없었습니다. 모두 다 두려움 때문에 또 보신 때문에 예수님을 버려 도망쳐 버렸습니다. 아무도 예수님과 길을 같이하지 않으며 고난을 같이하지 않고 예수님을 혼자 두었습니다. 예수님께서는 그러한 미래를 예상하고 계셨습니다.
그러나 제자들에게 버림받고 상황으로서는 혼자의 고독에 빠졌을지라도 예수님께서는 “그러나 내가 혼자있는 것이 아니라”(32절)고 말씀하셨습니다. 그것은 “아버지(하나님)께서 나와 함께 계신다”(32절)고 믿고있었기 때문입니다. 누구에게 반대되어도 누구에게 버림받아도 아버지 하나님께서 나와 함께 계신다. 이 신앙이야말로 “용기”의 근원이며 “고난”을 극복하여 “평화”을 얻기 위한 힘입니다.
예수님께서 붙잡히시고 십자가에 못박혀 처형되셨을 때 제자들은 도망쳐 흩어졌습니다만, 그 후, 다시 예루살렘에 돌아옵니다. 그리고 함께 모여 함께 기도하고 함께 예수님의 구원을 전파하기 시작했습니다. 예수님의 길을 걷기 시작한 것입니다.
그러나 그 때, 예수님께서 예고하신 대로 “환난”(33절)이 일어납니다. 제자들도 예수님 같이 세상 사람들에게서 반대되어 박해를 당하게 되는 것입니다. 직전의 15장 18절 이하에서 예수님께서는 이미 제자들이 박해를 당하게 될 것을 예고하셨습니다. “너희가 세상에 속하였으면 세상이 자기의 것을 사랑할 것이나 너희는 세상에 속한 자가 아니여 도리어 내가 너희를 세상에서 택하였기 때문에 세상이 너희를 미워하느니라”(15장19절) 라고.
제자들은 이 세상의 가치관에 속하지 않습니다. 제자들은 예수님의 신앙과 가치관을 품고 있는 것입니다. 자신의 힘을 의지하고 이 세상의 영광이나 물질적인 풍부함을 제일로 하고 자기의 취향에 따라 사람을 차별하고 자기를 옳다고 정당화한다. 그러한 길을 떠나 하나님께 창조되어 사랑받고 있다고 믿고 하나님의 힘과사랑에 맡기고 하나님의 인도하심을 믿고 하나님의 마음을 제일로 하고 이웃을 사랑하고 서로 사랑하여 하나님 앞에 늘 회개하면서 산다. 그러한 예수님의 길을 제자들은 걷는 것입니다.
그래서 세상 사람들에게서 미움을 받는 것입니다. 자기들은 옳다고 믿고 사랑을 잊어버린 종교 지도자들이나 주류파인 바리새인들에게서 박해를 당하는 것입니다. 사도행전을 읽어보면 예수님의 가르침을 전파하기시작한 제자들이 붙잡혀 심문을 받아 위협되어 투옥되고 처형되는 상황이 쓰여 있습니다. 그러나 제자들은박해하는 사람들에게 “하나님 앞에서 너희의 말을 듣는 것이 하나님의 말씀을 듣는 것보다 옳은가 판단하라우리는 보고 들은 것을 말하지 아니할 수 없다”(사도행전4장19절) 라고 담대하게 대답하고 있습니다. 그렇게 의연한 태도를 제자들에게 취하게 한 힘은 무엇이었을까요? 그것은 “용기”입니다. 신앙에 의한 용기입니다.
예수님께서는 환난을 극복하기 위하여 “담대하라”(33절), 용기를 내라고 제자들을 격려하셨습니다. 물론이 용기는 성령의 힘으로 제자들에게 가져오는 것이지만, 거기에는 제자들의 신앙이 물음받고 있는 것입니다. 자기가 어떻게 살아가느냐? 예수님을 따라가는 길을 선택하느냐? 어떠냐?
자기들은 예수님을 배신해 버렸다. 쉽게 예수님을 버렸다. 그런데도 불구하고 예수님께서는 이 나를 결코버리지 않으신다. 어떨 때라도 함께 해 주신다. 사랑하여 인도해 주신다. 이것을 깨달았던 제자들에게 진정한 신앙이 생겼습니다. 예수님의 가르침을 따라 예수님의 길을 걷으려고 결심했습니다.
세상 사람들에게서 인정받지 못해도 제사장들이나 바리새인들에게서 미움받아도 반대되어 박해를 당해도그리스도의 제자로서 살아가려고 했습니다. 제저들에게 그러한 삶을 관철하게 한 힘은 신앙에 의한 용기 바로 그것입니다.
“내가 세상을 이기었노라”(33절) 라고 예수님께서는 힘차게 말씀하셨습니다. 그런데 예수님께서 말씀하신세상에 이긴다는 것은 어떤 것일까요? 그것은 사람들에게 이긴다거나 상대를 굴복시킨다거나 인정시킨다는것이 아닙니다.
그것은 자기가 살아가는 길을 관철한다는 것입니다. 아무에게 인정받지 않아도 자기답게 산다는 것, 그것이 “세상을 이긴다”는 것입니다. 예수님께서 바로 그러한 분이셨습니다. 제사장들이나 바리새인들의 비난을두려워하지 않으시고 하나님의 사랑에 일관하여 사셨습니다.
남의 눈, 남의 평가, 남의 생각에 얽매여 있는 동안은 우리 마음에 평안은 없습니다. 남을 신경 쓰지 않게되었을 때, 얽매이지 않게 되었을 때, 우리 마음은 평안한 마음을 얻을 수 있는 것입니다. 남의 눈도 평가도생각도 신경쓰지 않고 아무에게도 인정받지 않아도 두려워하지 않고 살아갈 수 있는 것입니다. 그것이 바로혼자가 된다는 것입니다. 바꿔 말하자면 자립해서 살고 있다, 주체적으로 살고 있다는 것입니다.
그러나 그것은 동시에 힘든 일기도 합니다. 그렇게 살기에는 또 그러한 고독에 견디어 내기에는 “용기”가필요합니다. 그 용기는 어디로부터 생기는 것일까요?
32절, “그러나 내가 혼자 있는 것이 아니라 하버지께서 나와 함께 계시느니라”
우리 크리스천에 있어서는 이 신앙으로부터 용기가 생기는 것입니다. 눈에는 보이지 않지만 주 예수 그리스도께서, 그리스도의 성령께서 함께 계신다는 신앙으로부터 생기는 것입니다. 생명의 진리는 나와 함께 있다고 그렇게 확신하고 있으니, 그 기쁨이 있으니 아무것도 두려워하지 않고 “용기”가 생기는 것입니다.
사도행전에는 그리스도인이라고 번역된 그리스 말이 여덟 번 나옵니다. 그 말을 문자 그대로 번역하면 “그리스도의 길의 사람”이라는 뜻이 됩니다. 그리스도의 길을 걷는 사람입니다. 우리는 그리스도의 길을 걷는사람인 것입니다.
그리스도의 말씀을 지식으로서 익히는 사람이 아닙니다. 그리스도의 말씀을 따라 그리스도의 길을 착실하게 걷는 것을 그리스도께 기대받고 요구되어 있는 것입니다. 어쩌면 반대되어 미움을 받을지도 모릅니다. 환난이나 고난이 있을지도 모릅니다. 그러나 “용기”를 마음에 품어 이 길을 걸어가는 것입니다. 신앙을 마음에품어 그리스도와 함께 하는 기쁨을, 자기가 믿는 길을 사는 마음의 평안을 살아가는 것입니다.
“세상에서는 너희가 환난을 당하나 담대하라 내가 세상을 이기었노라”(33절)
여러분, 주 예수 그리스도의 이 말씀을 마음에 품어 성령의 도우심을 기도하면서 걸어갑시다. 아멘.
〇讃 頌 讃頌歌 465 (1・3節)
〇献 金 ※ 毎週、各家庭で献金を献げ、教会で礼拝を守られるようになりましたなら、まとめて献げてください。
〇感謝の祈り
主なる神さま。あなたの限りない恵みに感謝します。今ここに、それぞれが感謝と献身のしるしとして献金を献げました。、この献げ物を通して、あなたへの感謝と信頼を新たにすることができますように。そして、与えられた全てのものを通して、あなたの栄光をあらわすことが出来ますように、私たちをお導き下さい。今日よりの新たな一週間もあなたと共に歩ませてください。この困難な時期を耐える力を私たちにお与えください。また、あなたとのつながり、そしてあなたを信じる人々とのつながりがより深まりますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
〇主祈祷 主の祈り
天にまします我らの父よ。
願わくは、御名をあがめさせたまえ。御国をきらたせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らをこころみにあわせず、悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。