〇黙 祷
〇招 詞 出エジプト記 3章 12節
〇讃 頌 讃頌歌 287 (1・3節)
〇祈 祷
〇聖書奉読 マタイによる福音書 28章 16~20節
〇説 教 「全ての人を弟子にしなさい」
〇讃 頌 讃頌歌 508 (1・3節)
〇献 金
〇感謝祈祷
〇頌 栄 讃頌歌 5
〇主祈祷 主の祈り
※主日礼拝内容 (各家庭での礼拝に用いて下さい)
〇黙 祷 黙祷をもって礼拝を始めます。
〇招 詞 出エジプト記 3章 12節
神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」
〇讃 頌 讃頌歌 287 (1・3節)
〇祈 祷
お祈りいたします。
万軍の主であられる神さま、
新型コロナウイルスの感染拡大によって、今、大きな困難の中にある世界を顧みてください。
主日礼拝も教会に集まり共に献げることが出来なくなりました。しかし、私たちがどこに居ましても心を合わせ共に礼拝を献げますから、私たちの礼拝を喜んでくださり、この時間、主に栄光を表させてください。
いつくしみ深い神さま、
感染拡大が一日も早く収束しますように。病に苦しむ人々に必要な医療が施され、感染の終息に向けて取り組むすべての人々、医療従事者、病者に寄り添う人々の健康が守られますように。亡くなった人が永遠のみ国に迎え入れられ、尽きることのない安らぎに満たされますように。不安と混乱に直面しているすべての人に、支援の手が差し伸べられますように。
希望の源である神さま、
わたしたちが感染拡大を防ぐための犠牲を惜しまず、世界のすべての人と助け合って、この危機を乗り越えることができるようお導きください。
このお祈りをすべての祈りと併せて、
わたしたちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
〇聖書奉読 マタイによる福音書 28章 16~20節
28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
28:17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
28:18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
〇説 教 「全ての人を弟子にしなさい」
受難節に入ってからマタイによる福音書を御一緒に読んで来ました。今日がその最後となります。前にお話ししましたが、マタイによる福音書には、イエスさまが復活された後のことについて多くを語っていません。だからこそ、マタイが伝えたかったことがここには凝縮されているように思います。
さて、復活されたイエスさまは、マグダラのマリアを初め婦人たちにこう言われました。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」(10節)、と。
普通に読めば、イエスさまに会うのが楽しみだ、ということになるかと思います。だって、死んだはずのイエスさまが生きているというのですから。しかし、この時の弟子たちの気持ちを考えると、そうとばかりも言っていられません。なぜなら、つい先日、自分たちはこともあろうに、みんなしてイエスさまを裏切って、見捨ててしまったのです。悔いても悔いても悔やみきれない、そのような思いの中にあったからです。
一体、どの面下げて、イエスさまに顔を合わせられると言うのか。もしかしたら、イエスさまは自分たちに罰をお与えになるかもしれない。弟子たちはイエスさまに会える喜びよりも、このような恐れを抱いていたことでしょう。もしくは、婦人たちの言ったことだから、信用出来ない。どうせ幻でも見たのだろう。そのような半信半疑の心でいたかもしれません。ですから、弟子たちは恐れと不安の中、故郷ガリラヤへと向かったのでした。
17節をご覧下さい。「そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」聖書はこの時の弟子たちの心をよく言い表しています。この「疑う者もいた」という文章を読むと、11人の弟子たちの中には、ちゃんと信じている者もいれば、疑いの心を起こす者もいた、という風に読んでしまいがちですが、原文のニュアンスからすると、むしろ、「イエスに会い、ひれ伏したが、同時に彼らは疑った」と訳した方が良いかもしれません。疑ったのは一部の人というのではないのです。弟子たち全員が、信じたと同時に疑ってもいたということです。
これが弟子たちの心であり、彼らの信仰の限界であったということです。
弟子たちは、なんとも複雑な思いで、指示された山に登りました。すると、確かにそこにイエスさまがおられたのです。感動の再会といきたいところですが、イエスさまとの間に微妙な距離感があるのを否むことはできませんでした。
その時、イエスさまはどうされたのか?18節に記されています。「イエスは近寄って来て言われた。」
イエスさま自ら弟子たちに近寄って来られました。それは勿論、疑う弟子たちを叱るためではありません。疑いの心を起こしてしまう弟子たちを励ますためでした。
私たちはイエスさまを目の前に見ることはできなくても、励ましの言葉はいつも聞くことが、読むことが出来るのです。疑いに心が捕らわれる度に、イエスさまは私たちの迷い戸惑う魂に近寄って来て、懇ろに語りかけてくださるのです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(18~20節)と。
疑い迷う弱々しい信仰しか持っていない私たちに「すべての民をわたしの弟子にしなさい」とミッションが与えられたのです。それでも、私たちは恐れ戸惑います。「私には到底できません、反対されたら、聞いてもらえなかったらどうするんですか」と思ってしまいます。しかし、まさに、そういう私たちにイエスさまは語られるのです。「わたしが一緒にいるではないか。必要な力も言葉も全部、わたしがその時必要なものを与えるから安心していなさい。わたしはあなたにこのことをやってもらいたいのだ」と。
全ての人をわたしの弟子にせよ、との命令を受けて、私たちは独りぼっちにされるのではありません。わたしがあなたに与えた使命を、あなたが果たすことができるために、わたしはいつも一緒にいるとイエスさまは言ってくださるのです。
私たちに託された使命は、全ての人をわたしの弟子にしなさい、というミッションです。ここには、マタイの神学が濃厚に表れています。即ち、簡単に言えば、伝道とは弟子作りである、ということです。イエスさまが命じておられることはただ一つ、全ての者をわたしの弟子にせよ、ということです。弟子にするために具体的にどうするのかという説明が洗礼を授けて、教えることだと、言われているのです。
ただここには、今、教会で重んじられている説教のことも聖餐式のことも語られていません。しかし、マタイとマタイの会衆にとって、説教とか聖餐とかいうことは、大前提のことであったのです。ですから、それよりもマタイにとって今格別に強調すべきことがありました。それが洗礼を授けることと、教えるということでした。逆に言えば、この二つが、マタイが「今日」(15節)と語る時代において、教会が軽んじていた事柄だと言えます。
これは今の時代にも通じることだと思います。自称クリスチャンだという、キリスト教に好意的な人々がたくさんいます。しかし、洗礼は受けようとしない。イエス・キリストのことは大変尊敬すると語る。でも、教会に加わろうとはしない。そのような人がいる中で、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けよというのは、極めて具体的な指示であるわけです。
もう一つの教えるということに関しても、そうです。キリストの福音を聞いて、喜んで信じ、洗礼を受けるのだけれども、もうそれで卒業してしまって、あとは自分の生きたいように生きる、という卒業クリスチャンが結構います。また、学ぶことをしない訳ではないし、教えを受けているんだけれども、自分の都合の良い、あるいは興味のあることしか聞こうとしない、こういう信徒が少なからずいて、マタイや使徒たちを困らせていたわけです。だから、マタイは語っているのです。「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(20節)と。彼らが聞こうが聞くまいが、語り教えよ、と。聞いたことがありませんと言い訳できないように、あますことなく伝えよ、と。
私が毎週説教をしていて、面白いと言いますか、感じることは、私が語る説教に対してその人の心が動くかどうかは、信仰があるとか聖書をどれだけ知っているかにはほとんど関係ないということです。説教を聞いても、クリスチャンでも分からない人もいれば、初めて聴いて「あっ」と分かる人もいます。説教というのは、そういうものなんだろうと思います。
だからこそ、この弟子作りという使命は困難を極めます。しかし、これこそ復活のイエスさまがお命じになられた偉大な使命、これこそが伝道であり宣教なのです。
伝道や宣教において本当に困難なのは、福音のメッセージを伝えることではありません。むしろ、そのメッセージ、その教えに人々が、クリスチャン・ノンクリスチャンを問わず、聴き従わない、イエスさまの弟子になり切らない、ということなのです。マタイ自身、自分がイエスさまの弟子として歩んできて、弟子とされるということがどういうことか、弟子として従うということがどういうことかを、わずかでも体験してきました。今度はマタイが、人々をキリストの弟子にする番です。そうすると、なかなか洗礼を受けようとしない人々に遭遇するわけです。洗礼を受けても、父と子と聖霊という三位一体の奥義を誤解する人々が現れます。イエスさまの教えを教えても、頑なに聞こうとしない人たちが出てきます。
まことに困難な業だからこそ、イエスさまは弟子たちに、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と、また「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と語って、慰めと励ましを語ってくださったのです。
皆さん、私たちの教会も、このキリストの偉大な業に召されているのです。アーメン。
[お祈り]
恵み溢れる神さま。あなたは信じながらも時に疑い恐れる私たちを、主の偉大な宣教の業へと招いて下さり感謝いたします。今のこの困難な時に、私たちが何を為すべきなのか、信仰者として問われております。しかし、主は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と、慰めと励ましを語ってくださいますから、主の御言葉を信じ、この主の召しに応えさせて下さい。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
[요약판] “모든 민족을 제자로 삼아라” 마태복음 28장 16~20절
부활하신 예수님께서는 막달라 마리아와 다른 마리아에게 이렇게 말씀하셨습니다. “무서워하지 말라 가서 내 형제들에게 갈릴리로 가라 하라 거기서 나를 보리라”(10절) 라고.
예수님께서 죽으셨을텐데 살아 계시다니 보통 기뻐했을 것입니다. 예수님을 만날 수 있으니까 기대했을 것입니다. 그러나 그 때 제자들의 마음은 그런 것이 아니었습니다. 왜냐하면, 바로 요전 하필이면 모두 다 예수님을 배신하여 버렸습니다. 뉘우쳐도 뉘우칠 수 없는 그런 마음 속에 있었기 때문입니다. 도대체 무슨 낯짝으로 예수님을 만날 수 있느냐? 어쩌면 예수님께서는 자기들에게 벌을 주실지도 모른다고 제자들은 예수님을 만날 수 있는 기쁨 보다도 이러한 무서움을 안고 있었을 것입니다. 또는 마리아들이말한 것이니까 신용할 수 없다. 어차피 환영이라도 보았을 것이라고 제자들은 반신반의한 마음이었을지도모릅니다. 그러므로 제자들은 두려움과 불안을 안고 고향 갈릴리로 갔었습니다.
17절을 보십시오. “예수를 뵈옵고 경배하나 아직도 의심하는 사람들이 있더라” 성경은 그 때의 제자들의마음을 잘 나타내고 있습니다. 이 “아직도 의심하는 사람이 있더라” 라는 문장을 읽으면 열한 제자들 가운데에는 잘 믿는 사람도 있고 의심하는 사람도 있다고 읽을 수 있습니다만, 원문대로 읽으면 “예수를 뵈옵고 경배하나 동시에 그들은 의심했다” 라는 뜻이 됩니다. 의심한 사람은 일부의 사람들이 아닌 것입니다. 모든 제자들이 믿는 것과 동시에 의심했다는 것입니다. 이것이 제자들의 마음이며 그들의 신앙의 한계였습니다.
제자들은 뭐라고도 말할 수 없는 복잡한 마음으로 지시된 산에 올라갔습니다. 그랬더니 확실히 거기에 예수님께서 계신 것입니다. 감동의 재회라고 말하고 싶은데 예수님과의 사이에 미묘한 거리감이 있었다는 것은 부정할 수 없습니다. 그 때, 예수님께서 어떻게 하셨는지 18절에 쓰여 있습니다. “예수께서 나아와 말씀하여 이르시되” 예수께서 스스로 제자들에게 다가오셨습니다. 그것은 물론 의심하는 제자들을 꾸짖기 위해서가 아닙니다. 의심해 버리는 제자들을 격려하기 위해서였습니다. 우리가 의심할 때마다 예수님께서는 의심하는 영혼에 다가와 주셔서 서서히 말씀해 주시는 것입니다. “하늘과 땅의 모든 권세를 내게 주셨으니 그러므로 너희는 모든 민족을 제자로 삼아 아버지와 아들과 성령의 이름으로 세례를 베풀고 내가 너희에게 분부한 모든 것을 가르쳐 지키게 하라 볼지어다 내사 세상 끝날까지 너희와 항상 함께 있으리라”(18~20절) 라고.
의심하여 헤매며 연약한 신앙밖에 갖지 않는 우리에게 “모든 민족을 제자로 삼아라” 라고 미션이 주어진것입니다. 그러나 우리는 무서워하여 헤맵니다. “나에게는 도저히 못합니다. 반대하거나 들어주지 않았으면어떻게 해요?” 라고 생각해 버립니다. 그러나 바로 그런 우리에게 예수님께서는 말씀하시는 것입니다. “내가 함께 있잖아. 필요한 힘도 말도 모두 다 내가 그 때 필요한 것을 줄테니까 안심해라. 나는 너희가 이것을해 주었으면 좋겠어” 라고. “모든 민족을 제자로 삼아라” 라는 명령을 받고 우리는 외돌토리가 되는 게 아닙니다. 내가 너희에게 준 사명을 너희가 수행할 수 있도록 나는 늘 너희와 함께 있다고 예수님께서는 말씀하시는 것입니다.
우리에게 맡겨진 사명은 모든 사람을 예수님의 제자로 삼으라는 미션입니다. 여기에는 마태의 신학이 짙게 나타나고 있습니다. 즉 쉽게 말하자면 전도라는 것은 제자로 삼는다는 것입니다. 예수님께서 명하신 것은 오직 하나뿐입니다. 모든 사람을 나의 제자로 삼으라는 것입니다. 제자로 삼기 위해 구체적으로 어떻게 하느냐는 설명이 세례를 베풀고 가르치는 것이라고 말씀하신 것입니다.
이것은 지금의 시대에도 통하는 것이라고 생각합니다. 자칭 크리스천이라고 하는 기독교에 호의적인 사람들이 많이 있습니다. 그러나 세례를 받으려고 하지 않습니다. 예수 그리스도를 아주 존경한다고 합니다만, 교회에 가입하려고 하지 않습니다. 그러한 사람이 있는 가운데 아버지와 아들과 성령의 이름으로 세례를 베풀라 고 하는 것은 아주 구체적인 지시인 것입니다. 더 하나의 가르친다는 것에 관하여도 그렇습니다. 그리스도의 복음을 듣고 기꺼이 믿어 세례를 받습니다만, 벌써 그것으로 졸업해 버리고 나중은 자기의 마음대로 산다는 졸업 크리스천이 많이 있습니다. 또 배우기는 배우고 가르침을 받기는 받습니다만, 자기 편의만 생각하거나 흥미있는 것밖에 듣으려고 하지 않는 성도도 있어서 마태나 사도들을 난처하게 만들었습니다. 그래서 마태는 말했습니다. “내가 너희에게 분부한모든 것을 가르쳐 지키게 하라”(20절) 라고. 그들이 듣거나 말거나 가르쳐 지키게 하라고요. 들은 적이 없다고 변명할 수 없도록 모든 것을 전하라고요.
이 제자로 삼으라는 사명은 극도로 어렵습니다. 그러나 이것이야말로 부활의 예수님께서 명하신 위대한 사명이고 바로 이것이야말로 전도이며 선교인 것입니다.전도나 선교에 있어서 참으로 어려운 것은 복음의 메시지를 전하는 것이 아닙니다. 오히려 그 메시지, 그가르침에 대해서 사람들이 크리스천 논크리스천이 관계없이 따르지 않는다, 예수님의 제자가 되지 않는다는것입니다. 마태 자신 자기가 예수님의 제자로서 걸어와서 제자로 된다는 것이 어떤 것인지, 제자로서 따른다는 것이 어떤 것인지 조금이라도 체험해 왔습니다. 다음은 마태가 사람들을 그리스도의 제자로 삼을 차례입니다. 그랬더니 좀처럼 세례를 받으려고 하지 않는 사람들과 조우하는 것입니다. 세례를 받아도 아버지와 아들과 성령이라는 삼위일체의 오묘하심을 오해하는 사람이 나타납니다. 예수님의 가르치심을 가르쳐도 완고하게 듣으려고 하지 않는 사람들이 나옵니다. 참으로 아주 어려운 일이기 때문에 예수님께서는 제자들에게 “하늘과 땅의 모든 권세를 내게 주셨다”고 또“내가 세상 끝날까지 너희와 항상 함께 있으리라” 라고 말씀하셔서 위로와 격려를 말씀해 주신 것입니다.
여러분, 우리 교회도 이 그리스도의 위대한 사명을 받고 있는 것입니다. 아멘.
〇讃 頌 讃頌歌 508 (1・3節)
〇献 金 ※ 毎週、各家庭で献金を献げ、教会で礼拝を守られるようになりましたなら、まとめて献げてください。
〇感謝の祈り
主なる神さま。あなたの限りない恵みに感謝します。今ここに、それぞれが感謝と献身のしるしとして献金を献げました。この献げ物を通して、あなたへの感謝と信頼を新たにすることができますように。そして、与えられた全てのものを通して、あなたの栄光をあらわすことが出来ますように、私たちをお導き下さい。 今日よりの新たな一週間もあなたと共に歩ませてください。この困難な時期を耐える力を私たちにお与えください。また、あなたとのつながり、そしてあなたを信じる人々とのつながりがより深まりますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
〇主祈祷 主の祈り
天にまします我らの父よ。
願わくは、御名をあがめさせたまえ。御国をきらたせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らをこころみにあわせず、悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。