ついに、広島県にも非常事態宣言が出されました。そのために、5月6日(水)まで教会を閉鎖いたします。勿論、今までのようにご自由に教会に出入りは出来ますが、自粛をお願い致します。5月6日まで、主日礼拝が2回ありますが、来週から一応、二週間は主日礼拝を中止致します。但し、教会が礼拝を守ることの重要性を考え、牧師と役員数名による礼拝を午前10時から行い、11時30分からYouTubeによる配信を行います。また、礼拝内容を教会ホームページに記載しますので、ご自宅で礼拝を共にお守りください。
イースターの朝、マグダラのマリアともう一人のマリアにイエスさまは「恐れることはない」と語ってくださいました(マタイ28:10)。
私たちは今、コロナウイルスという目に見えないが故により一層の恐れの中に置かれております。イースターを迎えた私たちは、イエスさまの言われる「恐れることはない」という御言葉を聞く時、十字架で殺されたけれども死の支配を打ち破って復活し、私たちに永遠の命を約束してくださったイエスさまが今、共にいてくださることを覚えたいと思います。だから恐れる必要はないのです。イエスさまの墓を見張っていた番兵たちは恐ろしさのあまり、「死人のようになった)」(マタイ28:4)と言います。何をしていいのかわからないという状態になったのです。
私たちには復活のイエスさまが共にいてくださいます。だから恐れることなく、冷静に今私たちがしなければならない自粛と御言葉の養いを求めて、今の時が過ぎ去るために積極的に祈り、忍耐し、努めたいと思います。
復活されたイエスさまの祝福が皆さんの上に豊かにありますように祈ります。
さて、今日の御言葉は、4つの福音書の中で、マタイによる福音書だけに記されている出来事です。と言うことは、マタイがこの福音書を読む人々にどうしても語りたいメッセージがここには含まれているということです。
では、15節を見て下さい。「兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。」
ここで言われている「この話し」というのは、13節にある「弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った」という話です。イエスさまのお墓の番兵をしていた兵士たちは、祭司長・長老たちから多額のお金で買収され、この噂を流したわけですね。 まずもって、私たちが目を留めたいことは、ユダヤ人の間に広まっているこのうわさ話に、教会がずっと悩まされ続けていた、ということです。
使徒たちがこの話を一体どの筋から聞いたのか、定かではありませんが、使徒ヨハネが大祭司の知り合いでしたから、その人から聞いたのかもしれませんし、あるいは、初代教会の初めの頃に信仰に入った多くの祭司たちから、教えてもらったということもあり得ましょう。もしくは、金を受け取った兵士たちの一人が後に回心して、裏話を聞かせてくれたと推測することもできます。いずれにせよ、世間のほとんどの人が、偽の噂に騙されている中にあって、何とか真実を伝えようとの意図がここにはあるのです。
そういう意味で、マタイによる福音書は極めて伝道的な書物だと言えます。社会一般に流布している考え方に、ちゃんと向き合おうとしているのです。特に同胞であるユダヤ人たちがなかなか救い主イエス・キリストを信じようとしてくれない、悲しみともどかしさの中にあって、その原因の一端がここにあることを痛切に感じていたのではないかと思うのです。だから、マタイは自分の牧会する群れの信徒たちに、日ごとの生活の中で語れるメッセージの言葉を書いてくれたとも言えます。
イエスさまの復活のことを話せばみんな、そんなこと信じられるか、弟子たちが盗んでいったんだろう、いつまでそんな馬鹿げたことを信じてるんだ、いい加減目を覚ませ、そう言ってきます。そういう人々に対して、いやそうじゃありません、冷静に考えてみてください、もしお弟子さんたちが盗んだというのが事実だとしても、そこにいた番兵の誰も気付かないなんてことがあるでしょうか。それにあの時お弟子さんたちはみんな恐怖心に駆られて逃げ隠れていたんですから、遺体を盗もうだなんてそんな勇気はなかったはずです。と、そう説明すれば、分かってくれる人もいる、とマタイは励ましてくれています。
噂とは実に不思議なもので、みんながそうだと信じていれば、その話し自体がどれほど信憑性がなく、胡散臭いものであっても、真実としてまかり通ってしまいます。ちょっと頭を働かせれば、到底受け入れられないはずなのに、当局の太鼓判が押されているというだけで、疑いもなく信じてしまうのです。そのような世間一般の人々、いや身近な人たちに対して、私たちクリスチャンは語るべき言葉を持っていないのではありません。ちゃんと伝えるべき言葉を教えてくれています。
皆さんが信じているその話は、何の根拠もない出任せです、実は確かな筋からの話ですが、祭司長たちや長老たちが兵士たちを金で買収して云々、とそう語ることができるのだと。おそらく、ここにまとめられている文章は、使徒たちや一般のクリスチャンたちが様々な機会に証ししてきた内容ではないかと思うのです。信仰者たちは、復活のイエスさまのことを話しても、信じてもらえないという事態に、度々遭遇していました。イエスさまがかつて語られましたヨナのしるし、即ち、人間に対して唯一与えられる天からのしるしとしての、イエスさまの復活を聞いてもなお信じないということに、驚きと戸惑いを覚えていたのです。
11節を見ますと、こう書いてあります、「婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した」と。まことに不思議なことに、イエスさまが復活したとの知らせは、弟子たちが婦人たちから聞く前に、兵士たちによって祭司長たちや長老たちの耳に届けられていた、というのです。何と憐れみ深い主の御業であることでしょうか。彼らは本能的に分かったはずです。確かにイエスさまはよみがえったのだ、と。しかし、何としても信じたくないために、彼らはお金で問題を解決しようとしました。番兵たちを金で買収したということは、自分たちが悪いことをやっていると重々承知している、ということです。
十字架につけられる前のイエスさまについてならば、信じなくてもまだしょうがないと言えるかも知れません。しかし、極めつけの復活を前にしても、なおそれを信じない、受け入れられない、というならば、もはや彼らに与えられる恵みは残されていないと言うべきでしょう。
ある人はこう思われるかもしれません。復活されたイエスさまが、祭司長たちや長老たちの前に現れてくださったならば、彼らだって信じたのではないか、と。でも、復活のイエスさまの顕現は、そういう形では起こりませんでした。信じる者も信じない者も共に見ることが出来るような仕方では、復活は起こらなかったのです。それ故に、人々は言いました。「そら見たことか、これでお前たちの言っていることが嘘っぱちだということがよく分かった。だってそうではないか、本当にイエスがよみがえったというならば、今ここに姿を現してくれたらよいのだ。そうしたら信じてやろう」と。
それに対して、私たちはこう説明することもできるでしょう。「復活されたイエスさまは天に昇られたので、今は目に見ることが出来ないのです。その代わりに聖霊が注がれて、聖霊を通してイエスさまはいつも私たちと一緒にいてくださるのです」と。
それでも、ある人々はこう言うに違いありません。「誰でも余程悪い人でない限り、死ねば天国に行くではないか。それとどう違うと言うのだ。お前たちの言うことは到底信じられない」と。
教会は初めからこのような反論と直面してきました。今もそれは変わりません。今日の御言葉を通して、私たちはその困難と葛藤が、初代教会の初めからあったことを知って慰めを受けるのです。無理解と反対に苦労しているのは、私たちだけはないのです。
では、それに対して、聖書はもっと人々が信じられるに至るだけの証拠を集めてきて、説得しようとしているのでしょうか。
聖書はただ「兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている」と記すだけです。むしろ、聖書はそれとは別の道を指し示しています。それが次の16節から語られる御言葉に記されているわけですが、それはまた来週に委ねると致しましょう。
ただ、一言前もって言うとすれば、信徒たちは、いや主イエス・キリストの兄弟姉妹たちは、自分たちがイエスさまからわたしの兄弟たちと呼んでもらえた喜びの故に、様々な困難と葛藤の中にあっても、自分たちの生き様を通して、疑いを晴らしていったということです。
主イエス・キリストの復活は、到底説明し尽くせるものではありません。それは勉強不足というのではなくて、復活そのものが人間の範疇を越えているのです。そのことの故に、祭司長たちも長老たちも、金で兵士たちを買収するという姑息な手段でしか対応できませんでした。それ以上のことはできなかったのです。イエスさまの復活のことを聞いても、それでも信じたくない人たちの、精一杯の対応策でした。
でも、ここに神さまの偉大な御業が豊かに現れています。彼らがイエスさまを信じないことは責められるべき事で、いささかの弁護もできないことですが、しかし、そのような彼らをも通して、主イエス・キリストの復活は証しされているのです。その意味で、彼らは罪の中に閉じこめられながらも、主イエス・キリストの復活の証人として用いられました。それは、彼らの不信仰が幾らかでも赦されているということではなく、自分の手で自分を罪に定めたということです。
私たちはこのような福音を神さまから委ねられています。復活の主イエス・キリストの福音は、その力は、教会の中に留めようと思っても留められるものではありません。天地の王であられる主イエスさまが、それを世間一般の信じない人々の内にも証ししておられるからです。その主の御業に、私たちが如何に仕えるか、それが私たちに問われております。共にこの偉大な福音に仕えていきたい、主に用いていただきたいと願います。
[祈祷]
復活の主よ。神さまの大いなる御業に感謝します。あなたは不信仰の中にも、主の恵みが示し、用いて下さいます。まさに、私たちがそうです。信仰と言えるものではないかもしれませんが、復活の主との出会いを大切にし、自分たちの生き様を通して、信仰を、あなたの愛を証しすることが出来ますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。