先々週、西部地方会の信徒修養会が姫路で行われました。講師は、在日大韓基督教会西成教会の金武士牧師任(元総会長)で、2回の講演が行われ多くの恵みを与えられました。その中で、日本の教会は、もっと神さまを畏れ、求めるということが必要なのではないかと言われました。文脈的な説明を省きますが、「神さまに求める信仰から、神さまを求める信仰に」というテーマの中で話された内容なんですが、日本にある教会は、人を愛するとか、人への配慮、共に助け合うという、倫理的な面を強調するが、もっと純粋に神さまを畏れ、敬い、神さまに求めるということが必要なのではないかと言われました。韓国の教会は、純粋に神さまを畏れ、求めている、と。
金武士牧師任が韓国留学中にお世話になっていた教会(大きなとても有名な教会)の教会標語(目標)の聖句が、マタイによる福音書22章37節の御言葉で「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(マタイ22:37)であったそうです。韓国の信仰観をよく表していると思ったそうですが、同時に、この御言葉には続きがあるでしょ。「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ 22:39)というものが、これが抜けていたらダメでしょうと思ったそうです。まあ、韓国と日本の教会では、このような違いがありますが、この違いを乗り越えて、礼拝を御一緒に献げられるというのは、大きな恵みであり、自分たちの信仰の弱さや不足を気づく大切な機会であるかと思います。この礼拝が、私たちにとって、大きな恵みの時となればと願っております。
さて、今日の御言葉ですが、「いったいだれが天の国で一番偉いのでしょうか」(1節) ここで弟子たちがイエスさまのところへやって来て、「一番偉いのは誰か」ということを聞いた、というわけですね。これはちょっとそこだけ聞きますと、弟子が出世主義者で大変利己的な質問をしているみたいに聞こえるかも知れませんけれども、これはもっと単純で純粋な弟子たちの質問であったと思うんですね。天の国で一番偉いのは誰なんだろう?どんな信仰なんだろう?何をすればそれに近づけるのだろう?、そんな思いで聞いたんだろうと思うんです。
先ほど、韓国の教会のことを言いましたが、純粋に神さまに褒められる信仰、行いというものを求めているのが韓国教会の信仰観かと思うんですね。そういった意味で一番になるということを真剣に考えるわけですね。韓国は日本以上に競争社会です。その競争に勝ち残るのはごくわずか人たちです。それが当たり前の社会です。その影響もあるのか、この世の競争には敗れても、信仰の世界では、何とかし勝ち残りたい、仮に、生きている間にそのような評価を受けなくても、天の国においては、勝ち残りたい、そのために今何をしなければならないか?、そのために神の御言葉に忠実であろうとする。そのような信仰観が間違いかというと、そんなことはありません。ただ、問題もあるわけですね。何が問題なのかと言いますと、天の国というのは神の国のことですよね。神さまの直接的な支配が普遍的に、また超越的になされているところですが、そこで一番偉いということは、つまり、神さまの評価で一番は誰か、ということです。そういう質問を弟子たちが普通「現実で一番は誰か」と言っているのと同じような立場で聞いてしまっているところに問題があるかと思います。弟子たちは、自分たちが生きている現実と天の国というところにおける評価の基準というものを同じようにしてしまって、ごちゃ混ぜにしているというところが問題なんですね。
2節をご覧下さい。「そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて」とあります。イエスさまはそこへ子供を連れて来させて、そして弟子の真ん中に立たせられました。何でこんなところに子供が出て来るんだと、そうビックリしている弟子たちにイエスさまは言われました。3節です。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることは出来ない。」イエスさまは、「天国で一番になる、というようなことを考えてはいけない」とそんな風なことを言っておられるのではないんですね。「天の国で一番になる」、それはとても良いことだ、でも、天国に入るそこで「一番」ということを考える場合には、「心を入れ替えて一番」ということを考えなさいと言われているんだと思うんです。
では、この「心を入れ替える」ということは、どのように心をどう入れ替えるんでしょうか? イエスさまは非常に具体的に言われています。「子供のようにならなければならない」と。それが心を入れ替えるということだと。そして、「そこで一番になる、ということを考えなさい」という風に、イエスさまは言われたんだと思うんですね。現代に生きる私たちも普通の現実の社会で、「誰が一番偉いか」ということを、みんな心で考えていると思うんですが、その時に一つの基準は〈大きな仕事をする人が偉い〉、或いは小さなことかもしれないけれども、〈忍耐して、コツコツやっている人が偉い〉と。或いは、〈人の幸せの為に社会奉仕を一生懸命やっている人が偉い〉というふうに考えている場合が多いと思うんです。また、別な見方をすれば、〈肩書きをもっている人が偉い〉。或いは、〈お金を持っている人が偉い〉〈大きな権力を持っている人が偉い〉〈才能をもっている人が偉い〉ということも考えるかと思います。
つまり、〈何かをする人が偉い〉〈何かを持っている人が偉い〉ということですね。そこでは、「する」ということと、「もつ」ということが、偉いというものを決める時の基準のようになっていると思います。弟子たちもおそらくこの時、十二人いる弟子の中で、自分が一番篤い信仰をもっている。だから、「偉い」と言って貰えるんじゃなかろうか。或いは自分がこの中で一番イエスさまに尽くし働いている。だから、「偉い」と言って貰えるんじゃなかろうかと、考えていたんじゃないかと思います。つまり、「もつ」と「する」ということを基準にして、「誰が天国で一番偉いか」と思っていたところへ、イエスさまは子供を立たせたのです。
子供は「もつ」という意味においては、何も持っておりません。「する」という意味においても、何もすることは(何も出来ることは)ないわけです。ですから、「もつ」と「する」ということを基準にするのとは違う、もう一つの基準としては何か、ということを示す為に、イエスさまは子供をそこに立たせたのだと思います。「子供はどのような存在なのか?」と。子供というのは、この「する」という点と「もつ」という点においては、何も誇れるところはありません。「単純にある」という存在です。「する」ことも「もつ」ことも出来ない存在ですけど、でも、親や家族に、そして周りの大人たちに愛されて存在するものとして、「ある」ということですね。「単純にある」という点において、子供は誇るところと言いましょうか、別に誇っておりませんけども、「単純にある」ということの大切さを、子供は語っているのだと思います。
そして、「持つこと」「すること」を離れて、「あること」、それが大切である、ということを示す為に、イエスさまは子供を真ん中に立たせられたんだ、と思います。私たちが生きていますこの現実の社会というのは、結局、「もつこと」「すること」これをめぐって極めて打算的、功利的、人為的に構築されております。その中に私たちは浸りきってしまっていて、「もつこと」「すること」を追い回しながら、「誰が一番か」というようなことを競っているわけです。そのような中で、私たちは、人と比べて、誰かをうらやんだり、妬んだり、憎んだりして罪を犯しているのだと思います。
今、私たちは受難節を過ごしておりますが、イエスさまが教えてくださった人間の姿、罪深さというものを自分自身の中に、きちんともう一度、見つめ直す必要があると思うんです。そして、そんな私たちのために、今、イエスさまは重い十字架を背負われているということを考える必要があると思うんです。それなくして、イースターを迎えたとして、復活の喜びは所詮他人事となり、実際には、イエスさまを十字架につけたままにしているのだと思うんです。私たちは、この時の弟子たちと同じように、信仰を持っていても実は何もわかっていない、そのような存在かと思います。それでも、イエスさまは愛して下さっている。私たちのいのち救うために御自身のいのちを捨てようとされているということを、私たちは心に刻まなければなりません。私たちは、イエスさまに、神さまに愛されている存在だということ。その中に、「ある」ということですね。このことを教えるために、イエスさまは「心を入れ替えて、子供のようになければ、決して天の国に入ることは出来ない」と言われたのです。
「もつ」ということから離れなさい。「する」ということから離れなさい。ただ、単純に「ある」ということを、神さまに愛されて、そこに生きているということ、生かされているということを、もっと噛みしめながら生きなさいと、イエスさまは言われたのだと思います。あなたたちは、愛されているのだよ。愛されてそこにいるんだよ。だからこそ、イエスさまは、私たちに愛しなさい。愛することが出来ると言われているのです。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(ヨハネ 15:12)
皆さん、「愛しなさい」と教会で何回何百回と、聞いている思うんですね。誰もが、そうありたいと願っております。でも、そうは言ってもですね。私たちは本当に神さまを、そして人を愛することなんて出来るんでしょうか?実体験として、それがどれほど難しいか、いえ、出来ないと私たちは知っていると思うんですね。「愛しなさい」と言われれば言われるほど、苦しくなってきます。クリスチャンとして恥ずかしくなってきます。人前でクリスチャンと胸を張って言えないのは、このことが理由なのかもしれません。でも、クリスチャンとノンクリスチャンの違いは、そのような自分の存在を知っているのか、知らないのか、の違いだと思うんですね。
「愛したい」でも、愛せない自分であるということ。もし、誰かを愛することが出来るとしたら、それは聖霊の働きであるということを知っているのが、クリスチャンだと思うんです。クリスチャンと言っても、何だか、自分自身情けなくなってしまいますが、ただ、ここで、そのままで良いのかというとそうではありません。イエスさまは「心を入れ替えて」と言われています。「心を入れ替えて」、と。このことに気づいた、気づかせて頂いた者として、生き方というものがあるのだろうと思うんです。それがクリスチャンの生き方だと思います。
『心に愛がなければ』という著書の中で、渡辺和子さんが、ある宣教師の方から送られた詩を紹介しております。このような詩です。神が置いてくださったところで咲きなさい。仕方がないと諦めてではなく「咲く」のです。「咲く」ということは、自分が幸せに生き、他人も幸せにするということです。
「咲く」ということは、周囲の人々にあなたの笑顔が私は幸せなのだということを示して生きるということなのです。〝神が私をここに置いてくださった。それはすばらしいことであり、ありがたいことだ〟と、あなたのすべてが語っていることなのです。「咲く」ということは、他の人の求めに喜んで応じ、自分にとってありがたくない人にも、決して嫌な顔、退屈気な態度を見せないで生きることなのです。(「心に愛がなければ」から)この詩は、神さまによって愛され、そこに生かされているということを知った人の気づきであり、「心を入れ替えて」生きようとする人の決意表明であるように思います。〈生かされて今ここにある〉ということに気付き、神さまがここに置いて下さったのだから、それにふさわしく生きようとする人生の在り方です。つまり〈人生においてもたらされることは何でも感謝していこうという、積極的な生き方です。
人生において、花を咲かせると言うと、「能力を発揮し、成功する」という風に考えがちですが、「能力を発揮する」ということと、「いのちが咲く」「いのちが輝く」ということは別問題なんですね。ですから、「こんな職場では自分の能力を発揮できない」と、別の仕事に変わるというようなことがあるかと思うんですが、自分が「能力を発揮し、成功する」ためには必要なことかもしれません。でも、「いのちを咲かせる」ということは、別な次元のことをいっているわけです。〈能力というのは確かに置かれたところに影響されます〉、でも、〈いのちは置かれたところで影響されることはない〉んです。ですから、〈そこで能力が発揮出来ない、という不完全燃焼を味わっているとしても、それは必ずしも不幸ではないわけです。その中で輝くいのちがあるんです。
不平不満や文句を言ったり、人のせいにしたりしているうちは、事態はなんら変わりあいません。どうにもならないような絶望的な時、そこに一筋の光を見出すことができる人は、いつか人生の花も咲かせることができます。蒔かれた種は、文句を言わず、その場でただひたすら咲くしかないんです。でも、置かれた場所で咲く花は強く美しいのです。
この詩を与えられた当時の彼女は、ちょうど思いがけず指名された管理職の重みにたえかねて、「今の仕事さえなければ、今の立場にさえなければ……」と心の中に呟くことの多い日々の只中にあったといいます。人間は一人ひとりが花であり、花の使命は咲くことにあります。人間の 自由とは思うままにならない諸条件から解放される事でなく、それらの諸条件をどのように自分 を活かすために受けとめてゆくかということにおける自由なのだ、ということを、この詩を通して気付かされたと渡辺和子さんは言います。
「心に愛がなければ」や「置かれた場所で花を咲かせなさい」という渡辺さんの著書がベストセラーになりました。多くの人が感動し、共感したのだろうと思います。でも、実際には、「置かれた場所で花を咲かせる」というのは、大変なことです。渡辺さんの言葉に感動し共感したとしても、その言葉のまま実行出来る人は多くはおりません。だって、それは忍耐の連続だからです。何か、確固とした信念、信仰といったものがなければ、耐えられるものではないんです。渡辺さんには信仰がありました。神さまから愛されているという希望がありました。だからこそ、置かれた場所で花を咲かせることが出来たのだろうと思います。
詩編1編2~3節に、「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(詩1:2-3)とあります。どんな環境でも聖書を深く思い、聖書に生きる人は、たとえ人間的な環境は劣悪でも、きっと善き人生となると歌われています。
皆さん、「自分のいのちの花をさかせる」ために、まず、「心を入れ替える」必要があります。「神さまに愛されている」と気づくのです。神さまに愛され、導かれながら、そこに置かれているからこそ、「自分のいのちの花が咲く」ということを、今日の御言葉から覚えたいと思います。
皆さん御自身のいのちを、皆さんが置かれた場所で、ぜひ咲かせて下さい。そうすれば、天の国で一番偉いと神さまは喜んで下さると信じます。